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世界の“常識”を求めて(22)

Jリーグ、東と西

 1994年、2年目に入ったJリーグの人気はますます高くなった。新たにベルマーレ平塚(当時)とジュビロ磐田を加えての12チームによる、ホーム・アンド・アウェーの2回戦制は、ファーストステージ、セカンドステージで、それぞれ各チームの試合が18から22に増え、総試合数が各ステージ90から162と、40%アップとなった。
 選手たちには過密の日程となったが、試合が増えた分以上に、入場者数も伸びていった。
 もっとも、私の住む関西では、G大阪が唯一のチームという関係もあって、サッカーブームからはいささか縁遠い感じだった。
 首都圏なら初年度だけで6チームのホーム試合で、述べ185万人が生でサッカーの試合を見ているが、関西では万博に集まる39万人だけ。シーズン途中でもG大阪がアウェーの日は、関西ではどこにも試合の影はない――。こうした格差を埋めるためには、関西で第2、第3のJ加盟クラブを――ということになる。
 ただし、温度の低い地域のおかげで、ブームを冷静に見るプラスもないではなかった。


ラッパとテレフォンカード

 開幕当初から急速にスタンドで鳴り響き始めたラッパの大量注文が舞い込んでいたというある企業から、相談を受けたとき、それは止めたほうがいいとアドバイスしたのも、その一つ。調べてみるとグッズの権利を持つエージェントがラッパに目をつけ、Jの商品化委員会のOKをもらって、発注したのだという。
 いずれ“騒音”として抑制されることにあるのは、目に見えているから、Jのマークの入った公認グッズにするのは、好ましくないと、代理店の担当者にも説明した。
 程なく、ラッパは路上での騒音が問題となり、新聞などにも取り上げられて、試合会場から姿も音も消えた。
 公認グッズといえば、Jリーグの全チームのマークをあしらったNTTのテレフォンカード(105度数、1000円)の発行にも関わった。NTTがJに支払うロイヤリティー(それも珍しいことだったそうだ)はわずかだが、私設のもので大きな利益を上げるより、全国へのJのイメージアップとなると考えたからだった。
 Jの2年目まで、10チームと12チームの分の発売は、NTTでは記録的な数字だったことと、サッカーのコレクターの間では権威のあるガイドブック「ザ・ハムリン・ガイド・トゥ・フットボール・コレクタブル」にも紹介されたことが、私にもちょっと嬉しいことだった。


ワールドカップ米国大会

 94年のワールドカップ米国大会は、アメリカ合衆国での開催。日本のメディアの関心は高まり、取材の申込みが急増して、割り当ての枠を越えたフリーランスを、日本協会が抽選で選別する仕儀となった。
 6月17日、シカゴのソルジャー・フィールドでのドイツ対ボリビア戦で始まり、7月17日ロサンゼルス郊外のパサデナのローズ・ボウルでのブラジル対イタリアの決勝に至る31日間の大会は、会場のすべてが、アメリカン・フットボールであったこと、そのすべての試合が満員に近い盛況であったこと、にもかかわらず、ビッグテレビの放映は少なかったこと――など、まことに米国らしい大会と言えた。広い国内を飛び歩いた取材の飛行距離は2万4740キロ――ざっと世界一周できるほどだった。
 何より嬉しかったのは、これまでの3度の訪問のときよりも、サッカーが浸透していたこと。ロサンゼルス・オリンピック・スタジアム周辺の空き地で、多くの人がボールを蹴っているのを見た。
 このスタジアムはオリンピックに商業主義が張り付いた84年大会の会場でもあるが、私には1932年大会で、南部忠平さん(故人)が三段跳びで優勝したところとしての記憶が強い。そしてまた、この大会では「ブロークンタイム・ペイメント」の問題で、サッカーが開催種目から外された苦い思い出も残る。その2年前に極東大会で1位になった私たちの先輩は、このため世界の舞台で力を試す機会を失った。
 スタジアムの前で、「このときから酒を飲むようになった」というノコさん(竹腰重丸=故人)をはじめとする先輩たちの若き日の無念と、そうしたステップを踏みつつ発展してきたサッカーの歴史を思った。


1994年(平成6年)の出来事
◎1月 天皇杯の元旦決勝で横浜Fが鹿島を6−2で破る
    高校選手権決勝で清水商が国見を破って3度目の優勝
◎6月 ワールドカップ米国大会(17日〜7月17日)でブラジルが4度目の優勝
◎9月 第12回アジア大会(広島)のサッカーで、日本代表は1次リーグD組1位、1勝2分け。準々決勝で韓国に2−3で敗退
    第29回アジアユース(U−19)選手権(ジャカルタ)で日本代表は2位になり、95年ワールドユースへの出場権を獲得(アジア予選突破は初)
◎10月 第6回アジアユース(U−16)選手権で日本代表は初優勝。95年のU−17世界選手権の代表となる
※ ◎サッカー、◇社会情勢


(週刊サッカーマガジン2002年4月24日号)

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