賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >世界の“常識”を求めて(24)

世界の“常識”を求めて(24)

 ジョアン・アベランジェFIFA会長が「日韓共同開催に関する問題を解決していく」という趣旨の発言をすると、集まった理事たちからは大きな拍手が沸き起こったという。史上初の共同開催は21人の理事による満場一致の採択で決定した――。


ワールドカップの共同開催

 1996年5月31日、スイスのチューリヒで決まった2002年ワールドカップの日韓共同開催は、これまで近くて遠い関係にあった日本と韓国を急速に接近させ、互いが理解を深め、親しい間柄を進めていくということで、まことに素晴らしい。
 しかし、その決定までの数日間は、関係者にとって胃の痛くなるような日々だったろう。
 早くから開催招致の意向を表明していた日本だが、あとから招致に加わった韓国の追い上げにあって、いつしか、形勢不利が伝えられるようになっていた。
 当時のアベランジェFIFA会長と欧州連盟(UEFA)の対立もあって、政治的なからみも加わったが、ヨーロッパでは早くから、両国による共同開催案が語られていた。
 アベランジェ会長頼みの日本協会は、まだ日本での単独開催への希望を捨ててはいなかったが、当時議員であった釜本邦茂氏が欧州をまわったとき「共同開催案が(決定の会議に)持ち出されれば、それで決着するだろう」との感触を得ていたというから、かなり早いうちから、ほぼ形勢は決まっていたらしい。
 5月31日に私がロンドン経由でチューリヒに到着したときは、すでに共同開催が決定していた。
 自分が不利とみたアベランジェ会長が、自ら共同開催を理事会に提出して、満場一致で可決した。もちろん、その前夜に日本協会の長沼健会長と会い、状況を説明していた。このあたりの変わり身はさすがにアベランジェ会長らしいが、こうした急展開に日本のメディアの関係者はすぐにはついていけず、決定後の記者会見で長沼会長は、ずいぶん強い口調でなじられたらしい。


日韓の新しいつきあい

 翌6月1日、日本協会の関係者のホテルを訪ねると、ちょうど長沼会長は朝食中だった。
「あれでよかったでしょう」という言葉は、彼の苦渋の決断のあらわれと言えた。
 私は「ヤジ馬として言えばいろんなことが言えるが、アジアでサッカーの発展を志す日本と韓国のどちらが落選しても、それぞれが大打撃を受ける。FIFAはサッカーを盛んにするのが仕事だから、どちらかの国が痛手を受けることは避けたい。裏はアベランジェ会長とUEFAの勢力争いがあったとしても、この決定はいいと思いますよ」と答えた。
 日本の記者のなかには「単独開催というルールを無視するのがおかしい」という声もあったが、「ヨーロッパの人は、ルールは自分たちのためにあるもので、それが都合が悪ければ変えるのは平気らしいよ。日本はいったん決めれば、憲法などでも改正を論議しようという動きまで叩かれるところだが、彼らは、それも今の自分たちに適していないとなれば、変えてしまう」というような話をした。
 私自身、第二次大戦中、当時日本国の一部であった朝鮮半島にいたことがあり、そこの町での反日意識の強さに、自分たちがそれまでに聞かされていた朝鮮半島の融合政策がうまくいっているとの話が、信じられなくなった経験を持っている。
 韓国が独立した後も、両国の関係がいささかギスギスしているのが気がかりだったから、ワールドカップの共同開催で両国の関係が良くなるのはうれしいことだった。


イングランドの欧州選手権

 6月8日から始まったイングランドでの欧州選手権は、それまでの8ヶ国集結が16になり、規模も大きくなった。
 この大会で、かつて「ヒルスブラの悲劇」を生んだイングランドの古いタイプのスタジアムが、立見席をなくし、新しい近代的な形となったことを実感した。
 そしてまた、テーラー勧告による国のバックアップ、フットボールファンドが、プール(サッカーくじ)からの国への税金率を引き下げることで基金を増し、スタジアムの改築をはじめ少年育成、ハンディキャップのある人たちのサッカー観戦やスポーツ活動への援助などにも使われているのを見た。
 そして、この大会で、しばらく途絶えていたイングランドとスコットランドの対戦が見られた。その対立意識の激しさで、たびたび問題を起こした試合がフェアに行なわれ、サポーターもメディアも「オールド・エネミー」との対立を掲げながら、それを楽しみに変えている「大人」のつきあいになっていることを知った。
 95年に続くイングランドの旅は、私には大震災の痛手からの回復の力となった。


(週刊サッカーマガジン2002年5月8日号)

↑ このページの先頭に戻る