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世界の“常識”を求めて(26)

アジア予選の突破

 1997年秋に行なわれたフランス・ワールドカップのアジア最終予選は、日本サッカー界にとって退潮傾向を盛り返すまたとないチャンスだった。
 この年の3月から5月の1次予選D組を、日本代表は5勝1分けのトップで勝ち抜いて、最終予選に進出した。AFC(アジア・サッカー連盟)は、10チームを中立地域に集結するトーナメント(大会)を行なう予定だったが、開催地の調整がつかず、5チームずつ2組に分け、それぞれホーム・アンド・アウェーのリーグ戦で順位を決めることにした(各組1位がアジア代表、2位同士のプレーオフで第3代表を決める)。
 第2組の試合は、9月7日に始まり、11月8日までの2ヶ月間、ほぼ週1回のペースで、ホームとアウェーが交互に組まれていたから、サポーターもメディアも一つの勝利、一つの敗戦に一喜一憂し、緊張感が2ヶ月も続いた。第4戦では監督交代があり、1勝2分け1敗の苦境から立ち直り、2引き分けのあと2勝して、この組の2位に1組の2位イランとのプレーオフで、中田英寿のドリブルシュートのリバウンドを岡野が決めた11月16日、シンガポールへ3万人の日本人サポーターが押し寄せ、深夜テレビに日本中が沸いた。
 この年の私の大きな発見は、中田英寿――。それまで機会がなく、6月のキリンカップで彼を見て、こういう選手がいればフランスに行けるだろうと思ったものだった。
 もう一つの収穫は、私自身の新しい仕事――このころ急激に発達してきたインターネットなるものを知り、サッカー人でコンピューターに精通している本多克己という新しい仲間と話し合い、自分の書いたものや頭の中にあるもの、そして資料をホームページに蓄積し、分類して多くの人に見てもらおう、できれば英文も作ろうと計画し、震災から3周年経った98年1月に、ホームページの「Kagawa Soccer Library」をスタートした。


フランス98

 フランス98は、初の32チーム大会として6月10日から7月12日まで、フランス全土の10会場で開催された。
 1次リーグのH組の日本は、まず南西のピレネーに近いトゥールーズでアルゼンチンと、つづいて大西洋側のナントでクロアチアと、そして第3戦はリヨンでジャマイカと戦った。スコアは0−1、0−1、1−2と3敗だったが、スタジアムを埋めた日の丸と日本代表の組織的な戦いぶりは、大会での一つの記憶となった。
 優勝したのはフランス。ワールドカップの提唱者であったジュール・リメの故国が、2回目の開催で20世紀最後のチャンピオンとなった。大会前のFIFA総会で、アベランジェ会長引退の後を選挙によってブラッター新会長が誕生した。
 アベランジェさんの拡大政策によって、FIFAもワールドカップも大きくなった。一部にはその拡大策と商業主義に強い批判はあるが、24年間、世界全体の変化に合わせてナンバーワン・スポーツとしてのサッカーを統括するFIFAの基盤を固めたこの人の手腕とリーダーシップは大したものであった。
 74年の総会でサー・スタンレー・ラウス会長を選挙で破ったとき、「私は若いから」と言っていた彼も、1916年(大正5年)生まれ、このとき82歳だった。フランス語の最後のスピーチでは、24年前の会長就任のときと変わらぬよく通る声だったが…。


トルシエがやってきた

 大会が終わると日本代表の岡田武史監督が辞任し、9月にフィリップ・トルシエが監督となった。
 日本協会にとって、4年後に控えた2002年大会の開催そのものとともに、日本代表の“格上げ”は、重要なことだった。
 1955年3月21日生まれ。若くは見えるが43歳。フランスよりもアフリカの各国でコーチ経験を積んだ彼について、日本では知る人は少なかった。性急に結果や効果を見たかったが、初めのうちは疑いの目で見つめることになる。
 それは1960年、東京オリンピックへの4年間、日本を指導したデットマール・クラマーにもあったことだった。


1998年(平成10年)の出来事
1月 第77回天皇杯は鹿島が初優勝。準優勝は横浜F
   第76回高校選手権で東福岡が初優勝。66回大会からの11回のうち、九州勢の優勝は5回
6月 フランス・ワールドカップで日本は1次リーグ3戦3敗。開催国のフランスが決勝でブラジルを破り、初優勝
9月 フィリップ・トルシエ、日本代表監督に就任


(週刊サッカーマガジン2002年5月22日号)

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