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世界の“常識”を求めて(28)

EURO2000

 2000年3月に入ると、ワールドカップの予選がスタートした。
 2002年大会の開催国の日本は参加していないが、各地域の成績をメディアが報道するようになる。
 6月に欧州選手権、オランダとベルギーの2ヶ国開催、いわばワールドカップKOREA・JAPANより一足先の共同開催。日本からJAWOC(ワールドカップ日本組織委員会)の関係者や、取材のメディアが大挙して出かけた。
 私自身も1980年以来(88年は欠席)5回目の取材で、今回は後半部だけだったが、2年ぶりのヨーロッパの香りをかいだ。
 地域予選を勝ち抜いた7チームと開催国による8チームのトーナメント(集結大会)となった80年(イタリア)から、ワールドカップ式の1次リーグの後、ノックアウト・システム(準決勝、決勝)で優勝を決める。96年から16チームに拡大されて、その2回目だが、今度の準々決勝に残ったのはポルトガル、トルコ、オランダ、ユーゴスラビア、イタリア、ルーマニア、フランス、スペインという結果で、南欧が4、東欧が2、北欧は1、それに中近東イスラム国家でありながら、サッカーではUEFAに入っているトルコという色分けとなった。


22人のトータルフットボール

 準決勝はフランス対ポルトガル、イタリア対オランダとなり、唯一の北欧勢であり開催国のオランダが、イタリアの守りを破れず0−0の後のPK戦で退き、決勝にはオレンジではなく、トリコロール対アズーリ、いわばブルー同士の対戦となった。
 白を着用したイタリアの白い壁の守りが90分間、フランスの猛攻を退け、1−0で勝ってしまうかと見えたのに、ロスタイム、それも4分21秒というぎりぎりのところで同点ゴールが生まれ、延長に入ってトレゼゲのボレーが決勝点となった。フランスの同点ゴールも交代で入ったトレゼゲからのボールを、これも交代で入ったビルトールが決めていた。総力戦によるフランスの体力(スピード)勝ちとも言える。
 一つの大会を乗り切るためのフランス流、22人のトータルフットボールは、ストライカー陣の進歩を加えて、ますます板についてきた。


ハッサン2世とシドニー五輪

 欧州選手権の前の6月4日にカサブランカ(モロッコ)で行なわれたハッサン2世杯トーナメントで、日本はフランス代表と2−2の引き分けを演じて、大いに気をよくした。
 フランスがEURO2000を前にしての調整期間中でコンディションが最低であったのだが…。
 9月のシドニー・オリンピックは、メディアの期待どおりにはいかず、準々決勝で敗退した。トルシエが果たしてオリンピックでメダルを取れば、日本ではワールドカップ以上に盛り上がることを十分に知っていたのかどうか――。
 このシドニー・オリンピックの前に、Kさんという出版企画のプロと知り合い、本づくりの話が進んだ。その仕事の一つで中国へ出かけて、クラマーに会った。75歳の“鉄人”は、元気で日本代表の成長を話していた。


2001年、進む代表強化

 秋にレバノンでのアジアカップに優勝した日本代表は、2001年3月にフランスへ出かけてサンドゥニでフランス代表と戦い、0−5で大敗。前年のハッサン2世杯のときとまったく気合の違っているフランスの1対1の強さに圧倒された。
 その大敗のショックは、5月から6月のコンフェデレーションズカップでの好成績で埋め合わせをした。決勝でフランスに0−1で敗れたが、ファーストステージでカナダ(3−0)カメルーン(2−0)に勝ち、ブラジル(0−0)と引き分け、準決勝でオーストラリア(1−0)に勝った。日本の気温と湿度のなかで戦うという、ハンディをもらえば相当やれることの証明――といってしまえばそれまでだが、十分に準備をし気迫を込めて戦う日本チームは、2002年の本番に向かい力を蓄えつつあることを示した。
 この年の私の不満は、セレッソ大阪の2部落ち、前年優勝争いをしたチームが、である。「サッカーはどんなことでも起こる」――いくつになってもサッカーの不思議さには驚かされるのだった。
 2002年のワールドカップでも、“異変”が起こるのだろうか――。 (終わり)


2001年(平成13年)の出来事
1月 第79回高校選手権決勝で、国見が草津東を3−0で下して4回目の優勝
5月 コンフェデレーションズカップで日本代表はファーストステージ2勝1分け。準決勝でオーストラリア(1−0)を破り、決勝でフランスに0−1で敗戦
11月 キリンチャレンジカップにイタリア代表が来日。日本代表と1−1
12月 9年目のJリーグはファーストステージは磐田、セカンドステージは鹿島が優勝。チャンピオンシップは鹿島が1勝1分けで勝つ


(週刊サッカーマガジン2002年6月5日号)

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