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戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(続)

長沼健さんの献杯で故人を偲ぶ

 11月8日、午後5時から芦屋市のJR芦屋駅北側にあるホテル竹園芦屋で「鴇田正憲を偲ぶ会」が行なわれた。3月5日に78歳で亡くなった故人のチームメートや後輩が発起人となり、ごくプライベートな会ではあったが、関西学院大の後輩であり、メルボルン・オリンピック(1956年=昭和31年)代表としても仲間であった長沼健・元日本サッカー協会会長をはじめ、82人のサッカー人が集まり、故人のウイングプレーや人柄を語り合った。
 参加者の顔ぶれは、80歳を越える長老たちから、故人より少し若いメルボルン・オリンピック代表の世代、そして関学や田辺製薬で指導を受けた、いわば教え子にあたる後輩たち――なかにはヤンマーで釜本邦茂と2トップを組んだストライカー、阿部洋夫(現・関学監督)や東洋工業のパスの名手で、第一線を退いた後に、故人と札幌のベテランチームでプレーをした二村昭雄の顔もあった。
 献杯の挨拶で長沼さんが、自分が関学に入ったとき(1949年)のキャプテンが故人であったことや、厳しくはあったがしごきなどではなく、ボールを使っての練習で今から見ても合理的だったことなどの思い出を語り、先輩たちの積み重ねた歴史の基盤を生かそうと、ワールドカップの成功に懸命であった自らの協会会長時代に触れた。
「本来なら一人一人に短くてもスピーチをお願いするのですが、80余人という予想以上の集まりとなったので」――と司会の安達貞至(元・ヴィッセル神戸ゼネラルマネジャー)の指名で、数人が故人の思い出を語った。
 その和やかな同窓会的な雰囲気のなか、日本サッカーの歴史のある時期を切り取ったような参加者の顔ぶれを眺めながら、今日のように隆盛でなかったころに、少しでもいいプレーをしようと打ち込んでいた鴇田正憲の姿を、私はあらためて思い浮かべたのだった。


1946年、関学で第1回国体優勝

 鴇田正憲が関学へ入ったのは1949年(昭和19年)。サッカー部はなくなっていたから、ラグビー部に入った(ラグビーの方が皮のボールの消耗が少ない)。大戦が終わり、サッカー部が復活すると、レギュラーになって、46年の第1回国体に出場した。大会は戦災を受けていない京都を会場としたが、サッカーは東西対抗のかたちをとり、関学が勝ち抜いて西の代表となり、東の代表、東大LB(学生とOBの混成チーム。LBはストッキングの色であったライトブルーのこと)と西宮球技場で対戦して2−1で勝った。
 東西の対決で西側が勝つことは戦前では珍しく、東西学生1位対抗でも38年に関学が勝ったのが唯一の記録だったから、第1回国体で東大LBに勝ったことは、関学の歴史に新しいページを開いた。ウイング攻撃に伝統を持つこのチームで、鴇田は走力とキックに磨きをかけた。


快速ドリブルと“チャブル”

 ウイングとしての鴇田の強みは、センタリング(クロス)のキックの型が若いうちから決まっていたこととともに、ドリブルの巧みさだった。スピードを基調としながらの切り返しや、トウでの突っかけに独特の間(ま)を持っていた。後に、関学のキャプテンとなり、卒業後は監督も務めたが、そんなときに彼が私によく言っていたのは「このごろの選手はよう“チャブラへん”ので困る」。
 子供のころ、ゴムマリを使ってのサッカーで、ドリブルで進むというより、奪いにくる相手をからかうように軽くかわすことを、私たちは“チャブル”と言っていた。狭いスペースでも、体の向きを変えることでボールを奪われないようにする動作も入るのだが、足が速く大きく逃げることだけでなく、チャブリもできるのが後に、単に速攻型のウイングでなく、攻撃の起点としてのキープ役になる基礎にもなっていた。
 彼の成長とメンバーの充実によって、関学の学生チームも、OBと混成の関学クラブも日本のトップチームになる。1950年(昭和25年)、田辺製薬に入り、多くの日本代表を含むこのチームで、さらにその戦術的な能力も向上する。ただし田辺製薬の活動は実業団大会だけだったから、天皇杯は全関学、関学クラブでプレーし、4度の優勝に貢献した。
 53年に来日した西ドイツ(当時)のセミ・プロチーム、オッフェンバッハ・キッカーズと天皇杯チャンピオン、全関学が対戦したとき、1−5で敗れたが、唯一のゴールは雨でぬかるむピッチの右サイドを突破した鴇田のシュートだった。
 雨に強いはずの西ドイツのDFが、ハーフラインからの彼の快走にまったく追いつけなかった。


ペアプレーの極致を目指し

 田辺製薬チームで、鴇田は賀川太郎と右サイドのペアを組み、パスの受け渡しやポジショニングをステップアップする。1954年(昭和29年)秋、松山で行なわれた実業団選手権での鴇田のプレーは一皮むけていた。賀川32歳、鴇田29歳だった。 
 54年3月の初のワールドカップ予選(戦後初めて韓国と対戦した)、5月の第2回アジア大会(マニラ)と国際試合が重なり、ともに日本代表が不成績に終わったことも負けず嫌いの彼らに大きな刺激となった。また、マニラでは賀川が体調を崩して、鴇田は息の合ったパートナーなしでの戦いとなったことで、あらためて自らのウイングプレーについて考えたようだ。この大会のあと、コーナーを使う大きな動きをするという原点に戻ると私に語ったものだ。
 体調の回復した賀川とともに第3回大会以来、実業団選手権5連覇を成し遂げたとき、田辺製薬の右サイドはチャンスメークだけでなく、ゴールをも決めるペアとなっていた。


メルボルン五輪予選での攻撃起点

 1956年(昭和31年)、メルボルン・オリンピック予選の対戦相手は韓国。その第1戦は、鴇田がチーム最年長者として経験を発揮し、自らが起点となってチャンスを生み出すプレーを演じた。
 韓国代表は54年のワールドカップ・スイス大会に出場して“世界”への目を開き、またCF崔貞敏のような優れたストライカーを擁していた。個人技術でも体力でも、韓国が上と見られていた中で、第1戦での2−0の勝利はディフェンスの体を張った守りと、鴇田を起点とする攻撃の成功だった。
 第1戦でひざを痛めた鴇田は、1週間後の第2戦では試合に出られない。代わってミッドフィルダーの岩谷俊夫が出場したが、試合中にMF内野正雄が負傷して走れなくなり、10人同様(当時は交代なし)となって、0−2で敗れた。得失点差が同じのため、抽選で日本が東アジア代表となった。第1戦の2得点が利いていた。


行く先々でのサッカー

 田辺製薬の実業団選手権での連覇は6に伸び、7年目は敗れたが、次の年に勝って7回目の優勝を勝ち取る。1960年(昭和35年)に鴇田は東京支店に勤務が移り、すぐに東京にいた賀川太郎や岡野俊一郎たちとトリック・クラブでプレーする。
 来日したクラマーが、すでに第一線を退いている鴇田、賀川のペアプレーを見て驚き、私に「なぜ、こういうプレーが次の世代に伝承されなかったのか」と言った。
 年齢とともに会社での仕事も多くなり、64年に新潟支店長になり、本社の営業部長の後、札幌支店長となる。行く先々の土地で「鴇田さんとプレーしたい」と誘われ、多くの仲間ができた。87年に岡山市の良互薬品という系列会社の社長となる。前任者は賀川。65歳の会長と62歳の社長は会社のチームで岡山県リーグの公式戦でプレーした。
 偲ぶ会の発起人の一人、芳賀研二の話のなかに「晩年の鴇田さんはサッカーの集まりでいつもいいスピーチをした。その話を聞きたいために、プレーをしなくても会合にやってくる人も多かった」というのがあった。自ら工夫し、蓄えたものを人に伝えたいと思っていたのかもしれない。
 私がワールドカップや欧州選手権などのレベルの高い大会を取材しながら、彼らのサイドからの攻めを冷静に観察できたのも、少年期からずっと鴇田正憲のような選手が身近にいたからだった。彼ともっとサッカーについて語る時間を持つべきだったし、彼の元気なうちに彼のことを人に知ってもらうべきだった――会場内に飾られたパネルやスクリーンに映る彼の姿を見ながら、私はあらためて失ったものの大きさを知るのだった。

 
(月刊グラン2005年1月号 No.130)

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