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【番外編】サッカー界の歴史指向とS誌選定、日本代表ベスト50 釜本邦茂の1位に思う

 この月刊グラン2月号が皆さんのお手元に届くのは、2005年1月でしょう。
 そこでまず、明けましておめでとうございます。今年も、日本サッカーと名古屋グランパスによい年でありますように。


プレーヤー、指導者、58回で24人

『このくに と サッカー』の連載を始めたのが2000年4月号(NO.73)でしたから、5年近くが経ちました。私事ながら、75歳だったわが身も80歳の大台にのぼっています。
 英語では80代の人をオクトゼネリアン(octogenarian)と呼ぶそうです。Octは数字の8の意味で、音楽の1オクターブ(octave=音階)、また8本足を持つタコのことをオクトパス(octopus)といいます。英語力の決して高くない私がこんなことを知っているのは、何十年も前の日本サッカー協会(JFA)の機関誌「サッカー」に、故田辺五兵衛さんの随筆『烏球亭(うきゅうてい)雑話』という連載があり、その中でFA(イングランドサッカー協会)の××さんがオクトゼネリアンになったという話が出ていたからです。
 不勉強なものでも、自分に興味のあるサッカーの記事のなかで知った知識は、忘れることがないという、一つの例なのですが……。

 この連載は、月刊グランの木本恵也編集長の勧めで、「日本サッカーが今日のかたちになるまで、そのときどきで大きな力となり、影響を及ぼした人を紹介してみよう」ということで、スタートしました。
 73号から先月の130号までの58回で取り上げた人は24人ですから、決して早いペースではありません。はじめは1回に一人というふうに考えていましたが、それぞれの人がプレーし、仕事をした時代を書き込むことで文字数が増えて、見開き2ページと相当なスペースをいただきながら、人によっては上、中、下でも書き足らず、「続」まで加えたほどの歩みの遅さに、いささか面はゆい気もいたします。
 それでもグランの連載で私自身も、大先輩や先輩、仲間、そして優れた後輩たちについて、あらためて調べ直し、話を聞くことで記憶を確認し、新しい事実を知ったことは誠にありがたいことでした。忙しい時間を割いて、取材に協力してくださった人たちにあらためて感謝したいと思います。


歴史否定から歴史回帰へ

 5年の間に、世の中もずいぶん変わりました。サッカーは長い歴史を持ちながら、何しろ外来競技であるために、海外から新知識が入ると、それまで先人が培ったものをすべて忘れてしまう傾向がありました。
 例えば大正末期の新知識、ビルマ(現・ミャンマー)人のチョー・ディンの『How to Play Football』はそれまでの技術についての考えを一変しました。ここを足場にした技術革新によって、日本代表はそれまでの目標であった中華民国(現・中国)と、1930年(昭和5年)の極東大会で引き分けを演じるようになったのですが、その快挙の後、しばらくは古いことを忘れてしまった感がありました。
 同じようにデットマル・クラーマーの指導によって、64年の東京から68年のメキシコへと二つのオリンピックを足がかりに、日本サッカーは盛期に入ったのですが、その成功の陰には長い伏線があったことを、メディアもJFA自身も取り上げることはなかったのです。
“古いこと”として片付けられていたものが、日本の社会に強く甦るようになったのは、偉大な作家であり歴史家でもあった、司馬遼太郎さんが亡くなったころからでしょうか。
 大戦の敗北後、特に日教組が勢力を持った一時期の教育で、自らの歴史に対する国民の関心は失われていった――そんな世相が急速に変わってきました。日本サッカーはそんな世の中にあっても、最も自らの過去を振り返らないスポーツ人の群れでした。一つには、それを取り巻くメディアの幼さもあったでしょう。海外にあまりにも華やかな国やクラブやプレーヤーが多くいて、それに目を奪われ、酔うことに夢中だったのかもしれません。
 それがここしばらくの間に変わってきました。まず、学校――多くの旧制中学(現・高校)が100年の歴史の中でサッカーをとらえ始めたこと。消えてゆく旧制高等学校(大学の予科)の出身者が愛情を持って、自分たちが青春を尽くした日々を“××高校蹴球部史”としてまとめたこと。もちろん、大学もそうです。各都道府県協会の“○○年記念史”も作られ、サッカーにも自分史ブームがやってきた感があります。


サッカーの殿堂設立

 2002(平成14年)にFIFAワールドカップKOREA/JAPANというとてつもなく大きなスポーツ大会を開催し、それが成功に終わり、日本代表も幸運と努力でベスト16に進んだことによって、サッカー人自身も心に余裕が生まれ、自分たちの歩んできた道を振り返りたいと考え始めたようです。サッカーに興味を持つ人たちが増えたことで、サッカー史を掘り起こし、ファンの知的好奇心に応えようとするメディアも現れました。
 JFAが「サッカーの殿堂」を設立し、功績のあった人の“殿堂入り”を企画しています。アメリカのメジャー・リーグには“ホール・オブ・フェイム(名誉の殿堂)”があり、日本の野球にも殿堂があります。昨シーズン、名古屋出身のイチローが年間最多安打のメジャー記録を更新しましたが、こうした古い記録を引き合いに出してくるところに、アメリカのベースボールが歴史を重要視する姿勢――たかだか200年そこそこしかない歴史の浅い国で、歴史を大切にするベースボールがいかにファンに浸透しているかを、私はイチローの記録更新のときに改めて感じたものです。


サッカーマガジンの日本代表ベスト50

 昨年の暮れに週刊サッカーマガジンという雑誌の1000号記念として、日本のサッカープレーヤーのベスト50を発表しました。
 選考委員は同誌の歴代編集長4人と私(賀川浩)の5人で、いささか簡便のきらいはありましたが、それぞれ個人的な意見を持ち、それをよりどころにつけた順位を得点にして、合計点で順位をつけたものです。
 私は日本代表選手の中から選ぶということから、代表としての実績が少ない人は損になるけれども、致し方ないと決めて順位をつけました。従って、ドイツでプロとして成功した奥寺康彦も、代表実績はムルデカ大会での上位だけなので高位にはならず、彼と同世代の80年代の選手は当時、日本が低迷していたこともあり、選から漏れた人も多いのです。
 私の兄、賀川太郎もプレーヤーとしての功績や巧みさでは相当なものですが、彼ら戦中派は国際舞台での見るべき成績はなく、その点、1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピック組は、わずか1試合でも初めての世界舞台で強豪相手に勝利したということで輝いています。
 このあたりが成績や記録にこだわる“スポーツ記者気質”なのでしょう。中澤佑二というDFは素材の点から、私は何年か前の「オールタイムベストイレブン」のCDFに置いたが、今回はメキシコ・オリンピック組の次のクラスに持ってきたのも、その観点からです。
 ベスト1に釜本邦茂が入ったのは、その実績とアマチュア時代であっても、プロと変わらぬ体と技で、長い間、日本サッカーのトップに立ち、代表チームを引っ張ったことを選考者が認めたからでしょう。
 こうした歴史への回帰は、サッカー界にとっても悪いことではありません。いや、月刊グランにこの連載を書かせてもらっているものにとっては、編集長の時代を先取りする目に驚きながら、それに携わることにひそかな誇りもないではない。しかし、過去を振り返ることは、立派な人を称えるだけでなく、試合ならそのとき、なぜ勝てなかったのかを分析しなくてはならないでしょう。釜本がいて銅メダルを取れたのはなぜか、その後、彼がいても勝てなかったのはなぜか――。
「競技人口が少なかったときになぜカマモトが現れて、いまなぜカマモトがいないのか」(英国人記者、ブライアン・グランヴィル)という海外からの問いかけもあります。

 この連載で、まだまだ日本サッカーに貢献した人たちの後を追いたい。サッカー記者の草分けあった山田午郎さん(故人、朝日新聞)、不毛といわれた奥羽地方に高校選手権のタイトルを持ち帰った秋田商高の部長(当時)で、いまなお剣道場で指導しておられる内山真先生たちは、すぐにでも書きたい先輩。しかし、鴇田正憲を長く記したのは、やはり技術面で格段にレベルアップしたいまでも、ボールを蹴る技術の大切さ、そして、それを若いうちに、一つの型として自分のものにした選手のことを残しておきたかったからでもあります。
 カズ(三浦知良)も自分のシュートの型があった。中田英寿や中村俊輔、小野伸二たちは、若くして自分のキックの型をつくって、海を渡ったことがヨーロッパでの成功につながっていると思うからです。

 ワールドカップのアジア最終予選の年、グランパスにとってはいよいよビッグクラブに向かう足固めの年の始めに、オクトゼネリアンは天から与えられた仕事を皆さんとともに、楽しんで果たしてゆきたいと感じています。
 今年もどうぞよろしく。そして、この連載あるいは、私のホームページ(http://www.fcjapan.co.jp/KSL/)の書き物について、疑問があれば何でも問いかけてくださるようお願いします。


★『このくに と サッカー』で取り上げたサッカー人

氏名     タイトル        掲載期間

竹腰 重丸  昭和の大先達(00年5〜7月号)
田辺五兵衛  時代を見通した博覧強記(00年8〜10月号)
川本 泰三  ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール(00年11〜01年1月号)
右近徳太郎  どのポジションもこなした“天才”(01年2月号)
デットマル・クラーマー 75歳を超えてなおコーチの現場に立つ“鉄の人”(01年3〜6月号)
加藤 正信  規制に挑戦し、普及と興隆の機関車となった偉大なドクター(01年7〜10月号)
河本 春男  チームの指導と会社経営。生涯に2度成功したサッカー人(01年11、12月号)
釜本 邦茂  20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー(02年1〜4月号)
杉山 隆一  世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー(02年5、6月号)
工藤 孝一  早稲田の“主”(02年7、8月号)
二宮 洋一  天皇杯を7度も獲得した名ストライカー(02年9、10月号)
岩谷 俊夫  ゴールを奪うMFで優しい指導者。歴史を掘り起こした記者(02年11月号)
ジーコ    “自主”こそサッカー(02年12月号)
小城 得達  攻守兼備のMF、努力の人(03年1、2月号)
鈴木 良韶  日本代表を応援し続けて40年。サポーターの元祖(03年3、4月号)
大谷一ニ、四郎 兄は社長に、弟は生涯一記者に。日本サッカーの指標となった(03年5〜7月号)
長沼 健   オリンピック代表監督からW杯招致まで。40年間を日本協会とともに(03年9〜12月号)
ネルソン吉村大志郎 サッカーのために最初にブラジルから来日。大きな衝撃を与えた日系2世(04年1月号)
岡野俊一郎  W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔(04年2〜5月号)
高山 忠雄  最初のショートパス経験者。昭和5年の日本代表、校長でサッカー・コーチ(04年6月号)
高橋 英辰  “走る日立”で日本を目覚めさせ、生涯、現場に生きたコーチ(04年7、8月号)
セルジオ越後 日本の隅々まで足を伸ばしサッカーを教えたブラジル人(04年9、10月号)
鴇田 正憲  戦後10年、ウイングプレー一筋。センタリングの神様(04年11〜05年1月号)
※00年4月号は「はじめにあたって」、03年月号は「番外編・ワールドカップ一周年」


(月刊グラン2005年2月号No.131)

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