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東北初の高校チャンピオンを育てた剣道の達人 内山真(上)

 今年の高校選手権は鹿児島実業の優勝となった。1月10日、国立競技場で行なわれた市立船橋との決勝は延長でも決まらず、PK戦の末にタイトルを勝ち取った。
 満員の観衆の前で繰り広げられた大接戦を眺め、鹿児島実業・松澤隆司総監督の喜びの声を聞きながら、高校選手権の長い歴史の中で、そのときどきに選手を育て、チームを送り込んできた指導者たちの苦労と工夫を思った。内山真(まこと)先生(秋田県サッカー協会名誉会長)はそうした優れた部長、監督、コーチの中でも忘れられない一人。サッカーはまったくの素人でありながら、秋田商業高校サッカー部の部長、監督となり、それまでサッカー不毛の地といわれた東北地方に、高校ナンバーワンのタイトルを持ち帰った剣の達人である。


高校サッカー80余年

 1918年(大正7年)に大阪毎日新聞主催で、大阪市郊外の豊中グラウンドでスタートした第1回「日本フートボール大会」は、やがて参加チームが増え、26年から全国を8ブロックに分けて、その地域予選を勝ち抜いた代表が集結する「全国中等学校蹴球選手権大会」となる。
当時、日本の一部であった朝鮮半島からもチームが参加し、高い実力で常に優勝候補とみられていた。
 その後、会場は豊中から甲子園球場へ移る。甲子園は、始めは外野を広くし、サッカー、ラグビーもできるように設計されていた。30年(昭和5年)には甲子園南運動場が完成し、1周500メートルのトラックのなかに作られたゆったりしたピッチと、そのピッチ西側に設けられたコンクリート造りのスタジアムは、大戦が始まるまで関西サッカーのメッカとなり、中学サッカー選手のあこがれの地だった。
 しかし、このスタジアムは大戦中、海軍の高射砲陣地となり、大戦後はアメリカ進駐軍の倉庫となって、大戦中に中止されていた大会が47年に復活したときには使用できず、西宮球場(かつての阪急ブレーブスの本拠地)の外側に作られた西宮球技場がしばらく会場となる。
大戦前に強力だった兵庫県の御影師範は、学制改革で大会から消え、神戸一中もレベルダウンして、戦後10年間の優勝チームは広島と埼玉が主流となる。
広島は第一次大戦で日本の捕虜となった中国・青島のドイツ兵たちが、似島(にのしま)の収容所にいたとき、日本チームとサッカー交流試合をし、それをきっかけに彼らの指導を受けてレベルアップ。広島一中をはじめとする強チームが生まれた。
 埼玉は大戦前にすでに小学生サッカーが行なわれていた。さらに37年の第19回大会で埼玉師範が神戸一中を破って優勝したのが、大きな刺激となって普及、強化を後押しし、“埼玉を制すれば、全国を制す”がサッカー人のモットーとなっていた。
 この両地域に静岡が加わってくるのだが、そんな形勢のなかで、58年の第36回大会の秋田商工の優勝は世間を驚かせた。


基本を反復、一歩一歩前進

 秋田商高サッカー部の創設は、1948年(昭和23年)。その前年に新しく移転した茨島校舎には広いグラウンドがあった。好調から、このグラウンドに適したスポーツを――といわれた内山先生は、秋田工業はラグビーで知られているが、同じように男らしいスポーツだから秋田商はサッカーではどうか、と考えた。
 その年の7月、体育指導者の講習会に出席した内山先生は、講師の高橋英辰氏(後の日本代表監督)が「サッカーでも剣道の間合いを心得ていれば、ボールは取られない」というのを聞き、それなら自分にもできそうだと、この競技に深入りすることになる。もちろん、そのころの指導の第一人者であった高橋に、1年に1回でいいから教えに来てもらう約束も取り付けた。
 14年(大正3年)生まれで、剣道は高野佐三郎の門下、敗戦とともに柔道や剣道はしばらく占領軍から禁止されていたこともあって、内山先生はサッカー指導に打ち込むことになる。自分の剣道の体験を生かすのはもちろんである。
 基本は反復練習することだ。サッカーの技術も、一つずつしっかり反復練習をして、自分の型にしよう。1年に一つずつでも技を覚えること。そして、体力、走力を練ること。
 何より重要なのは、生徒の練習に自ら立ち会うことだった。自分が決して上手にできるわけではないが、いつも見られていることで、生徒の練習での集中力が違ってくる。


ひたむきに挑戦を繰り返し

 秋田商は1950年(昭和25年)に、秋田県大会で優勝した。しかし、秋田で勝っても、東北大会では仙台育英に0−11で大敗した。そんなレベルの差も徐々に縮まり、52年には東北大会で優勝、東日本大会では決勝まで進んだ。このときは、ここまで勝ち残れるとは思ってもいなかったし、持参の米もそこをつき、お金もなくて、最終日のダブルヘッダー(準決勝、決勝)当日は、旅館も引き揚げなくてはならなかった。
 53年には第31回高校選手権に初出場、1回戦に勝ち、2回戦で優勝した修道に1−2で敗れた。それも延長で――。
 決して上手とはいえないが、基礎技術を身につけたひたむきな秋田商は、高校選手権でも“常連”となり、徐々に注目されるようになった。
 第34回大会では熊本工を破り、宇都宮工を倒し、決勝で浦和に1−4で敗れた。
 浦和は2年連続優勝で、ずば抜けたストライカー、志賀広がいた。
 秋田商は次の年もタイトルには届かない。準々決勝で宮本征勝(東京、メキシコ五輪代表)のいた日立一高に3−4で敗れた。
 31回大会から連続しての挑戦は、とうとう達せられた。第36回大会で秋田商は1回戦で宇和島東を7−0、2回戦で広島の舟入を1−0、準々決勝でニラ崎を3−1、準決勝で浦和西を2−1、決勝では刈谷を4−2で破った。
 創部以来、10年目。高校選手権出場6回目のことだった。
 この大会で記者席の私たちは、秋田商のイレブンが相手にファウルされても、黙々とプレーするのを見た。内山流の“しつけ”は試合中のマナーから日常生活にも及んでいた。大会中、選手たちの宿舎を訪れると、玄関に迎えに来るのは旅館の人ではなくサッカー部員。お茶を持ってくるのも部員だった。
「お膳は自分で並べる。床上げ、掃除、ぞうきんがけまでしてくれる。物静かで、礼儀正しくて……」と宿の人たちは感心していた。私は敗戦後、都会ではしばらく忘れていたものを見た思いがした。
 しつけや基本の重視だけでなく、45歳の練達の剣士でもあった内山先生は、この大会に乗り込むときにも周到な準備をした。2週間前に秋田を出発して、藤枝や刈谷を転戦した。寒く、雪やみぞれなどでぬかるむ秋田でなく、暖かく、乾いたグラウンドでの仕上げと、強い相手と当たっておこうという腹積もりだった。
 経済的にもなかなかの仕事だったが、商工会議所や先輩たちの寄付でまかなえた。6回連続出場の実績が次第に町の人にも認められたといえる。
 全国優勝は町にも大きなインパクトを与えた。サッカーという新しいスポーツが秋田に根を下ろすようになり、この後、日本代表も生まれてくるようになった。
広い学校のグラウンドを生かすことから始まった秋田商のサッカーは、剣士で教育者の内山真によって、学校だけでなく秋田市、秋田県全域に浸透するきっかけを生んだ。


★SOCCER COLUMN

高校選手権のスタートは日本フートボール大会

 1918年(大正7年)1月12、13日に大阪市の郊外、豊中グラウンドで第1回日本フートボール大会が開催された。もともとはラグビーの関係者が大阪毎日新聞社に持ち込んだ企画だったが、当時はラグビーをしているチームがあまりにも少ないので、関西でチーム数の多いサッカーとの同時開催にした。そのころはラグビー・フットボール、アソシエーション・フットボールといっていたから、二つの競技をフートボール(フットボール)にまとめ、アソシエーション(協会=協会ルールによるという意)フットボールをア式、ラグビーをラ式と表記した。
“日本”フートボール大会と“全国的”な名称をつけたが、これはラグビーでは最も古い慶応大学チームの参加を考えたからだろう。
慶応は西下してきたが、参加チームが旧制中学ばかりなので、試合はしなかった。
ア式の方は第1回が大きな刺激となって、その後、チームが増え、専門学校なども参加したが、第8回からは中学校・師範学校の部と専門学校の部に分け、第9回から、いよいよ8地域の予選を行なうとして、全国中等学校蹴球選手権と名を改めた。8地域とは関東、東海、北陸、京滋奈、阪和、兵庫、中国、朝鮮(当時は日本の一部)。次の第10回(1928年=昭和3年)では朝鮮代表の崇実が初優勝した。
このころ、九州ではサッカーは普及していなかったため、予選地域にはならず、30年の大会から北海道とともに加えられた。


【全国高校サッカー選手権 歴代優勝校】

 回  開催年 優勝校
第1回  1918  御影師範
第2回  1919  御影師範
第3回  1920  御影師範
第4回  1921  御影師範
第5回  1922  御影師範
第6回  1923  御影師範
第7回  1924  御影師範
第8回  1925  神戸一中
第9回  1926  御影師範(兵庫)
 ※昭和2年は、大正天皇崩御のため中止
第10回  1927  祟実(朝鮮)
第11回  1928  御影師範(兵庫)
第12回  1929  神戸一中(兵庫)
第13回  1930  御影師範(兵庫)
第14回  1931  御影師範(兵庫)
第15回  1932  神戸一中(兵庫)
第16回  1933  岐阜師範(東海)
第17回  1935  神戸一中(兵庫)
第18回  1936  広島一中(中国)
第19回  1937  埼玉師範(埼玉)
第20回  1938  神戸一中(兵庫)
第21回  1939  広島一中(中国)
第22回  1940  普成中(朝鮮)
 ※昭和16〜21年までは戦争のため中止
第26回  1947  広島高師付中(中国一)
第27回  1948  鯉城(中国一)
第28回  1949  池田(近畿)
第29回  1950  宇都宮(関東)
第30回  1951  浦和(南関東)
第31回  1952  修道(西中国)
第32回  1953  東千田(西中国)、岸和田(大阪)両校優勝
第33回  1954  浦和(中関東)
第34回  1955  浦和(中関東)
第35回  1956  浦和西(埼玉)
第36回  1957  秋田商(西奥羽)
第37回  1958  山城(京滋)
第38回  1959  浦和市立(埼玉)
第39回  1960  浦和市立(埼玉)
第40回  1961  修道(広島)
第41回  1962  藤枝東(静岡)
第42回  1963  藤枝東(静岡)
第43回  1964  浦和市立(埼玉)
第44回  1965  習志野(東関東)、明星(大阪)両校優勝
第45回  1966  秋田商(国体3)、藤枝東(東海)両校優勝
第46回  1967  山陽(中国)、北洛(関西)両校優勝
第47回  1968  初芝(関西)
第48回  1969  浦和南(国体1、総体1)
第49回  1970  藤枝東(東海)
第50回  1971  習志野(東関東)
第51回  1972  浦和市立(埼玉)
第52回  1973  北陽(大阪)
第53回  1974  帝京(東京)
第54回  1975  浦和南(埼玉)
第55回  1976  浦和南(埼玉)
第56回  1977  帝京(東京)
第57回  1978  古河一(茨城)
第58回  1979  帝京(東京)
第59回  1980  古河一(茨城)
第60回  1981  武南(埼玉)
第61回  1982  清水東(静岡)
第62回  1983  帝京(東京)
第63回  1984  帝京(東京)島原商(長崎)両校優勝
第64回  1985  清水商(静岡)
第65回  1986  東海大一(静岡)
第66回  1987  国見(長崎)
第67回  1988  清水商(静岡)
第68回  1989  南宇和(愛媛)
第69回  1990  国見(推薦)
第70回  1991  四日市中央工(三重)、帝京(東京A)両校優勝
第71回  1992  国見(長崎)
第72回  1993  清水商(静岡)
第73回  1994  市立船橋(千葉)
第74回  1995  静岡学園(静岡)、鹿児島実(鹿児島)両校優勝
第75回  1996  市立船橋(千葉)
第76回  1997  東福岡(福岡)
第77回  1998  東福岡(福岡)
第78回  1999  市立船橋(千葉)
第79回  2000  国見(長崎)
第80回  2001  国見(長崎)
第81回  2002  市立船橋(千葉)
第82回  2003  国見(長崎)
第83回  2004  鹿児島実(鹿児島)


(月刊グラン2005年3月号 No.132)

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