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75年前の日本代表初代ストライカー。すり抜ける名手 手島 志郎

 連載『このくに と サッカー』のスタートは2000年4月号。最初に登場したのは竹腰重丸さん(1906〜80年)――。30年(昭和5年)の第9回極東大会(東京)で、日本が初めて東アジアで中華民国(現・中国)とともにトップに立ったときの日本代表チームの主将だった。その30年の日本代表――JFA(日本サッカー協会)が初めて選抜チームをつくり、編成した――のCF(センターフォワード)に手島志郎がいた。メキシコ・オリンピックで活躍した釜本邦茂や今の高原直泰、鈴木隆行に至る代表ストライカーの系譜からいえば、開祖に当たる。4分の3世紀前に、チャンスになると「もらったもらった」と叫びながらシュートを決めたという伝説のストライカーを眺めてみよう。


新宿雑踏で巨漢と対決

 昭和の始め、6年間、東大の黄金時時代が続いた。したがって数多くの優れた選手も出たが、そのなかで五尺(約152センチ)そこそこの短躯(たんく)ながら、“名手”の名をほしいままにしたのが手島志郎さん(田辺製薬常務)。この人の特長は上半身を肩から強くひねって、敵をドッジングしながら素早く相手の逆を取って、敵と敵との狭い隙間を弾丸のようにすり抜けるプレーである。体の大きなバックはこのプレーを警戒しながらも、いつもあっという間にすり抜けられたものだ。
 この肩を落とすようにしてひねる動作の工夫は、寝ているときを除いては時と場所を問わなかった。
 ある日のこと、新宿の表通りの雑踏を例によって肩をひねりながら歩いていると、前方からヨウカン色の羽織袴に学生帽をいただいた巨漢がやってきた。行き交う人々は相手が悪いと見て、みな、避けてしまうものだから、生生、得意で辺りを睥睨(へいげい)しながらやってくる。
 そこに並外れて小柄な手島さんが肩をふりふり、別によけるでもなく歩いてくるのだから、かの巨漢は「この小僧めが」と思ったらしい。いよいよ目の前まできたが、まだよけない。「こりゃ」とばかり猿臂(えんぴ)をのばして、まさに手島さんの襟に及ぼうとした瞬間、ぱっと一歩踏み込んだかと思うと、さっと右肩を落として目にも止まらぬ早さで、伸ばした腕の下をくぐって後ろへ抜けてしまった。
 巨漢は空をつかんで、その勢いでドウと倒れる。道行く人は一瞬息をのむ。あわてて起き上がったが、相手がいない。あたりの人はそれを見てワアワア笑っている。ふと後ろを見ると、小さな男が無表情でボーっと立っていた。怒気を満面に発した巨漢が向き直って猛然とつかみかかった。時すでに遅く、手島さんは人ごみを得意のドッジングですいすいとくぐり抜け、みるみる姿を消してしまったということである。
 この巨漢は後で柔道の某五段と知れた。「それを聞いたときはヒヤリとしたね。それからしばらくは新宿に行くのはやめたよ」とはご本人の述懐である。

 この一文はベルリン・オリンピック(1936年=昭和11年)の逆転劇の主の一人、川本泰三が、55年に雑誌『キックオフ』に寄稿した随筆の中の一つ。いわば2代目の日本代表ストライカーによる“開祖”のエピソードである。


旧制広島高校での5年間

 明治の末ごろ、父親の勤めの関係で台湾で生まれた手島志郎は、やがて広島に戻り、広島高等師範付属中学校でサッカーを始める。
 広島のサッカーは1906年(明治30年)に広島高等師範学校で課外運動に取り入れられ、ここから広まってゆく。第1次大戦でドイツ領であった中国の青島にいたドイツ人が捕虜となり、似島(にのしま)の収容所で暮らすようになって、捕虜のチームとの交流試合が19年(大正8年)ごろから始まり、広島のサッカーは急速にレベルアップし始めていた。
 24年に高師付属中学を卒業した手島は、25年に広島高等学校に進学する。本人の話によると、周囲から高等工業行きを勧められたが、東大へ行きたかったため、まず(旧制)高等学校を目指し、ちょうど24年に開校した広島高校に2回生として入学したのだった。
 旧制の高等学校は当時の国立大学(旧帝国大学)に入るための、いわゆる予科的(教養学部的)な性格を持ち、一般教養に重点を置くものだった。ナンバースクール(一高から八高)や、都市の名を冠した地方色豊かな高校、合計38校がそれぞれ独自のカラーを持ちながら、自由闊達な気風を生んでいた。スポーツも盛んで、特にサッカーのインターハイは高校生活の花の一つでもあった。23年に始まったインターハイに広島高校は第2回から参加し、26年1月の東京大会で準優勝、3学年がそろった次の年度は、手島主将の下に強チームをつくり上げながら、大正天皇崩御のため大会は中止となり、優勝は28年(昭和3年)1月まで持ち越される。決勝の対松山高校は8−1の大差で勝ち、手島の活躍は主催者である東大生に強い印象を与えた。
 本来なら3年で終了するはずの高等学校だったが、サッカーに打ち込んだ手島は結局、5年間、広島高校にいた。東大に進んだのは29年だった。


昭和5年極東大会 対中華民国2得点

 東大はそのころ、竹腰重丸を中心に故人技術もチームワークも優れ、すでに関東大学リーグで3連勝、関西の大学にも勝って、実力日本一と自他ともに認めていた。手島を加えて、連続優勝は1931年(昭和6年)までのびる。前掲の川本泰三記の「東大黄金時代」というのが、このときのことである。
 極東大会は日本サッカーにとっての数少ないアジアでの公式試合で、先進の中華民国に追いつくために、それまでは国内予選優勝チーム(強化選手もいた)を送っていた。しかし、30年の第9回大会では、東西大学リーグの優秀選手をピックアップして選考会を開き、文字どおりの日本代表を作ることにした。すでに、陸上競技や水泳などはオリンピックで日の丸を掲げていたのに、サッカーはアジアでも勝っていないため、オリンピック参加という声も消されていた。その将来の世界(オリンピック)への道を開くためにも、重要な大会だった。
 明治神宮競技場(現・国立競技場)での大会で、サッカーの参加は中華民国とフィリピンと日本の三ヶ国。リーグ初戦で日本はフィリピンを7−2で破った。中華民国も5−0でフィリピンを下し、1勝同士の日中戦は5月29日に行なわれ、3−3で引き分けとなった。日本のショートパスによる組織的な攻めと中華民国の個人技と体力を生かしたドリブル攻撃は、それぞれの特色を発揮して、息をのむシーソーゲームだった。日本の攻撃陣は左から春山泰雄、若林竹雄、手島志郎、篠島秀雄、高山忠雄と並ぶ5人FWで、手島はその中央のCF、この試合でもゴールを決めた。


オリンピック参加への道開く

 日本側は再試合による優勝決定戦を強く希望した。中華民国が拒否したために実現せず、両チームともに1位となったが、それまでの“出ると負け”だった極東大会で、たとえ引き分けであっても1位になったことは、サッカー人に大きな励みとなり、日本のスポーツ関係者の間にも「蹴球もなかなかやるじゃないか」と思われるようになった。
 東大農学部を出て農林省に入り、中国で仕事をしたが、1940年(昭和15年)、田辺製薬に入社し、サッカー仲間でもある田辺五兵衛社長を助けて社業発展に尽くした。
 冒頭の“新宿でのすり抜け事件”をはじめ、電車のなかで立ったまま眠って、隣の人の口に手を突っ込んだ話や、結婚式の直後に試合をして帰宅したのは良いが、引っ越したばかりの自分の家が分からず、ある家の門前でエプロン姿の婦人に尋ねると、そこが我が家。婦人は新妻だった――といったエピソードの多い人だが、それらはすべて16、17歳から23歳までの若いころ、常住坐臥(じょうじゅうざが)プレーを磨くことに懸命だった手島志郎のサッカーへの打ち込みに起因したものだった。
 スポーツを志すものは、どの時期にどれだけ打ち込むかによって決まる。私はペレやクライフやベッケンバウアーをはじめ、数多くの世界的なプレーヤーに接し、彼らの話を聞いたが、誰もが口にしたのは成長期の練習量の多いこと、ひたすら打ち込んだことである。
 設備も用具も今に比べれば貧しかったころにも、外国のトッププロと同じくサッカー一筋であった先人に、改めて敬意を表したいものだ。


手島志郎・略歴

1907年(明治40年)2月26日、台湾に生まれる。父・兵次郎は1892年(明治25年)、東大卒、広島出身で、若槻礼次郎(第25、28代内閣総理大臣)と同窓。当時、台湾総督府の高官。
1924年(大正13年)広島高等師範付属中学を卒業。
1925年(大正14年)広島高等学校に入学(2回生)。
1926年(大正15年)1月、インターハイ準優勝。
1927年(昭和2年)1月、大正天皇ご諒闇(りょうあん)のため、インターハイは中止。
1928年(昭和3年)1月、インターハイ優勝。
1929年(昭和4年)1月、インターハイ2回戦敗退。東大へ進み、秋の関東大学リーグに優勝(東大4連覇)。
1930年(昭和5年)第9回極東大会優勝。
1931年(昭和6年)秋の関東大学リーグ優勝(東大6連覇)。
1932年(昭和7年)農林省に入る。
1940年(昭和15年)田辺製薬入社。
1959年(昭和34年)田辺製薬退社。
1982年(昭和57年)11月6日没。


★SOCCER COLUMN

“蹴球部を出ました”――2人の一番が農林省へ
 手島志郎が東大農学部を卒業して、農林省の試験を受けたときのこと――。
 ひげをつけた試験管が、まず質問。
「君は何部を出たのか」
 手島は答える。
“蹴球部を出ました”
「シュウキュウブ? 何科だ?」
 しまったと気がついて“学問の方でしたら、農学部農業土木科です”と小さな声で訂正すると、試験官は皆、笑ってしまった。
 さらに成績表を眺めながら「君は学業成績は一番下ではないか」と言う。
 困ったなあと思うが、事実だから仕方がない。そこで度胸を決めて反論した。
“農林省には一番ビリの者は受験できぬと言う規則か何か、あるのでしょうか”
 今度は試験管の方がたじろいで「いや、そんな規則はない」と。
 こんなやり取りがあった後、農林省は手島を採用した。
 それからしばらく“農林省は二人の一番を取った。主席とビリとを――”と話題になったという。

人ごみとステップ
 手島さんより17歳年少の私は、残念ながらその最盛期のプレーを見ていない。ただし、戦後すぐ、われわれの世代が東西対抗の西軍の主力であったとき、手島さんがコーチをしてくれたこと、記者になってから何度か話を聞かせてもらったことなどがある。
 小柄だが視野が広く、何事も余裕を持って見つめていた。つき合いの幅が広く、田辺製薬の常務となってから、その顔がずいぶん会社の仕事の役に立ったらしい。
 独自のすり抜けも単に相手をかわすのでなく、一歩踏み込んで体にぶつかるまでになって、相手との接触を利用してすり抜けるのだった。後方からのボールを受けに戻るときにも、一動作で反転するのでなく、一つステップを踏んで、次のステップで前を向く。こうすれば、ボールを体の正面におけると言っていた。私自身も、このボールを迎えに行くステップを日常、心がけたものだ。
“新宿事件”のエピソードは私たちにも伝わっていて、私は70才を超えたころも人ごみの中を歩くのは早い方だった。あるとき、川本泰三氏と大阪・梅田の地下の人ごみをスタスタ歩いていたら、川本さんが「お前もそうやな。だが、うちの息子なんか『おやじが歩くのが早すぎる』と言いよる。アレ(息子)はオレより(サッカーが)上手なのに――」と嘆いていた。


(月刊グラン2005年5月号 No.134)

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