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殿堂入り歴代会長と第6代藤田静夫(上)

 日本サッカー協会(JFA)は、84年の歴史のなかで、その発展に特別の功労のあった人たちをたたえるために「日本サッカー殿堂」を設けて「掲額」することになり、先ごろ、第1回の掲額者が発表された(別表)。5月27日に東京の日本サッカーミュージアムで、その掲額のセレモニーが行なわれる。

 第1回の殿堂入りメンバーのなかに、JFAの初代会長・今村次吉から第9代の岡野俊一郎まで歴代の会長の名がある(現会長は川淵三郎キャプテン)。JFAという組織のリーダーであった歴代会長をたたえるのは、いささかお手盛りの感あり――との声もないではないが、考えてみれば、JFA創設時にはすでに外来スポーツではベースボール(野球)が大きくリードし、国内の普及の点で大きく水をあけられていた。そしてサッカーが世界中で普及が進み、競技レベルもわが国と大きな差があった大正年間からいまに至るまで、ひたすら、この競技の普及と国際舞台での活躍を志してきたJFAの各時代のリーダー、歴代会長の功績もまた大きかった――ということになるだろう。
 本来なら、その会長の一人一人について、この連載で詳しく取り上げていくべきだろうが、今回は大戦直後から親しくさせてもらった藤田静夫第6代会長を主としたJFA会長列伝としたい。なお、第1回の掲額者20人の中にはすでに、この月刊グランで紹介した人も10人あり、別表に掲載号を付記している。


初代・今村会長の下、極東のトップに

 JFAの誕生は1921年(大正10年)で、1924年生まれの私より3歳年長。従って、初代会長の今村次吉、第2代の深尾隆太郎の各会長はお目にかかったことはない。
 今村さんは1881年(明治14年)生まれで、大蔵省事務官、ロシア駐在財務官という官職の後に、亜細亜林業、日露実業といった会社の社長や役員を務めたから、ロシアとの交流があったのだろう。JFAの会長を引き受けたのが、40歳のとき。52歳までの12年間、会長職にあった。
 その功労の第一は、会長を引き受けたことにある。JFA創設のいきさつは、よく知られているようにイングランドのFA(フットボールアソシエーション=協会)から銀のカップが送られてきたのが始まり。
 スポーツ界では1921年のストック・ホルムオリンピック参加を目指して、1911年に大日本体育協会が設立されていた。サッカーは東京高等師範(現・筑波大学)では嘉納治五郎校長のスポーツ奨励によって、1896年に運動部が誕生したときの8部のなかの一つ、フートボール部としてスタートしていたが、各地で試合が行なわれるようになったのは1918年から。前年の第3回極東大会に日本が初参加し、国際試合を東京・芝浦で行なったことが刺激となった(2戦2敗)。
 1917〜18年にかけて東京、名古屋、大阪でそれぞれ大会が開催されたのを、おそらく英国大使館からの連絡で知ったFAが立派なシルバーカップを送ってきた。日本選手権大会(イングランドのFAカップにあたるような――)の勝者に贈ってほしいとのことだったが、まだ全国的な大会はなく、大会を開くためにも全国を統括する組織が必要となった。
 柔道の講道館の主であり、東京高等師範の校長で体育協会の会長である嘉納治五郎の指示により、高師の内野台嶺(明治42年高師卒、サッカー部)たちが協会設立の中心になって働いたが、大会の準備は進んでも、会長の引き受け手がなく困っていた。しかし、最終的に体協の筆頭理事であった今村次吉さんがOKしてくれた。
 そのおかげで、体協から千円の設立資金が出たという。著名な会長候補に断られた理由は明らかにされていないが、アメリカとの交流でスポーツの目を開いた東京周辺ではサッカーについての理解が乏しかったこともあり、高等師範(教育系大学)の学校内では盛んでも、ほかの一般の大学ではそれほどでなかったこともあったのだろう。そのなかで会長職を引き受けた今村さんの先見性はすばらしい。会長就任から9年後の第9回極東大会(1930年、東京・明治神宮競技場)で、日本代表がフィリピンを破り、中華民国と3−3の引き分けを演じ、中国と並んで極東のトップに立ったのだから。この1930年の大会での好成績は、34年後の東京オリンピック開催と、そこでのアルゼンチン戦勝利と同じような強いインパクトがあった。
 翌年からJFAは組織を再構築し、機関誌『蹴球』の定期刊行を計画した。その第1号の巻頭に、今村さんはこう記している(この連載の竹腰重丸さんの項でも触れているが、再録しておきたい)。

昭和6年10月23日発行
大日本蹴球協会機関誌『蹴球』第1号
 「本誌の使命」
 蹴球界統制の審笛
 技法研究の機関
 会員の団欒の楔子(せっし)たらんとす

 更に本誌は
 肉彈相搏(あいうつ)の壯觀
 觀衆熱狂の拍手
 神出鬼没の美技を江湖に伝う

 会長がどこでサッカーを覚え、どれほどの練達であったかは定かでないが、誠に見事な巻頭言といえる。


第2代深尾会長の下、ベルリンの奇跡

 第2代の深尾隆太郎会長(1877〜1948年)は1877年(明治10年)生まれで、初代会長よりも4歳年長。
 大学は今村さん(東大)とは異なり、いまの一橋大、昔の東京高商出身。大阪商船に入り、副社長を経て、1992年(昭和4年)に日清汽船社長となり、貴族院議員であり、男爵でもあった。子息が旧制五高でサッカーをしていたのが縁で、1935年から8年間、戦前の黄金期の会長を務めた。この時期の花、ベルリン・オリンピックの対スウェーデン戦の逆転劇はいまも語り草だが、当時は選手団を送るのにサッカー界挙げての募金活動が必要で、深尾さんの財力と幅広い人脈が大きなプラスとなったはず。
 本来なら1940年の東京オリンピックで重要な役割を果たす人だったろうが、中国での戦争の拡大で夢は消えた。


まず京都のスポーツ興隆を

 初代から第3代までの会長を眺めると、いずれも財界の大物でサッカー畑ではないが、サッカー界のためにも力を貸そうという人たちだった。
 それが第4代の野津謙ドクターから、サッカー畑の会長が生まれてくる。
 FIFA(国際サッカー連盟)の理事となり、クラマーを招いた野津さんについては別の機会にし、その野津さん同様に生え抜きのサッカー人であった第6代藤田静夫さんについて、しばらくお話したい。
 藤田会長のユニークなところは、中央(東京)の財界人でもなく、東京在住のサッカー人でもないところ。京都で育ち、京都のサッカーとスポーツの興隆に成功した地方スポーツの功労者で、同時に国際的な視野を持ち、中央の仕事にも気配りのできたところにある。
 日本の国政を預かる政治家と違い、アメリカでは州知事から大統領になることが多いが、地方のスポーツの仕事をしながら、JFA副会長として長く停滞期の苦労をともにし、長沼健、岡野俊一郎といった後の世代の成長にかけた、藤田会長の京都と日本のサッカーとスポーツを見つめた人生を、次号で眺めてみたい。


【「日本サッカー殿堂」掲額者】

 ◆東京、メキシコ両オリンピック出場者》
  ・釜本邦茂(月刊グラン02年1〜4月号掲載)
  ・杉山隆一(月刊グラン02年5、6月号掲載)
  ・平木隆三
  ・宮本征勝・故人
  ・八重樫茂生(月刊グラン02年7、8月号「工藤孝一」の項で)

 ◆特別選考
  ・竹腰重丸(月刊グラン00年5〜7月号掲載)
  ・田辺五兵衛(月刊グラン00年8〜10月号掲載)
  ・山田午郎・故人
  ・川本泰三(月刊グラン00年11〜01年1月号掲載)
  ・村形繁明
  ・デットマール・クラマー(月刊グラン01年3〜6月号掲載)

 ◆歴代会長
  ・初 代 今村次吉・故人  在任1921〜33年
  ・第2代 深尾隆太郎・故人 在任1935〜43年
  ・第3代 高橋龍太郎・故人 在任1947〜54年
  ・第4代 野津謙・故人   在任1955〜75年
  ・第5代 平井富三郎・故人 在任1976〜87年(月刊グラン03年9〜12月号「長沼健」の項で)
  ・第6代 藤田静夫・故人  在任1987〜92年
  ・第7代 島田秀夫     在任1992〜94年
  ・第8代 長沼健      在任1994〜98年(月刊グラン03年9〜12月号掲載)
  ・第9代 岡野俊一郎    在任1998〜02年(月刊グラン04年2〜5月号掲載)


★SOCCER COLUMN

戦死した子息のために――第3代高橋会長
 第3代の高橋龍太郎さんは年齢では深尾さんよりさらに2歳年長で、大戦後の1947年(昭和22年)に会長に就任、72歳だった。愛媛県生まれで、ビール醸造の歴史では欠くことのできない人。
 明治30年代にドイツに留学して、その技術を学び、後にビール会社3社が合併した大日本麦酒株式会社(現・アサヒビール)の吹田工場長、大阪支店長を経て、1937年から社長となった。
 戦後は日本商工会議所会頭、参議院議員、第3次吉田内閣の通産大臣などを務めた。この財界の長老がJFA会長を引き受けたのは、子息の高橋彦也さんが学生時代にサッカー一筋であったこと、さらに彦也さんの同窓、後輩から慕われた人間性をサッカーを通じて磨いた「いわばサッカーが彦也を育ててくれた」ことに感謝してのことだった。
 私たちの身近な神戸一中の先輩、向井清之さんは松山、京大で彦也さんの後輩にあたるが、後輩の面倒見が良い先輩であったこと、大戦中、海軍に入り、1945年、すでに戦争が終わった後、掃海艇の機雷除去作業中に艇が機雷に触れて戦後の戦死となったこと、高橋さんの広壮な邸宅に招かれて子息の話を聞かせてくれと言われたことなどを私に語ったものだ。
 野球の高橋ユニオンズのオーナーであったこの会長の下で、大戦後の復興は物資不足の中で比較的早かった。1947年の東西対抗の天覧試合の後、天皇杯下賜があったのが高橋会長の時代である。


(月刊グラン2005年6月号 No.135)

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