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京都と日本のサッカーに捧げた90年 第6代藤田静夫(下)

 日本サッカーの発展に特別の功労のあった人たちをたたえるための「日本サッカー殿堂」の第1回掲額式が、5月27日に東京文京区本郷3丁目の日本サッカーミュージアムで行なわれた。セレモニーの当日、健在のご本人、故人となられた功労者のご遺族にお目にかかって、心からお祝いを申し上げることができたのは、まことに幸いだった。
『このくに と サッカー』というこの連載企画のテーマからゆけば、20人の一人一人についてあらためて語るべきかもしれないが、2000年4月号から始まったこのシリーズのなかで、すでに紹介させていただいた人たちも多いので、前号と今月号は歴代会長列伝ということにし、今回は続きとして第6代藤田静夫会長を主に、その「下」としたい。
 なお、掲額者についてのこの連載での記述に関しては、前号のリストを参考にしていただければありがたい。


京都師範の選手で全国大会に

 第6代藤田静夫会長は東京在住ではなく、京都サッカー協会という地方のサッカー協会運営の経験を持つという点では、JFA(日本サッカー協会)では珍しい経歴の持ち主。また、それだけに関西で生まれ育った私には、身近な会長さんでもあった。
 藤田さんは1911年(明治44年)生まれだから、日本代表の世代でゆくと、30年(昭和5年)の極東大会組よりは少し若く、36年のベルリン世代に近い。
 サッカーを始めたのは京都師範学校(現・京都教育大)2年生の後半から。
 日本のサッカーの始まりは東京高等師範(現・筑波大)から教育系の学校――つまり師範学校へというパイプで地方へ浸透したのと、外国人の学校の先生、あるいは宣教師によって伝え教えられたルートがある。
 初期のサッカーの大会に師範学校の名が多いのは、この第1のルートによる伝播で、18年(大正7年)に関西でスタートした日本フートボール大会(高校サッカー選手権大会の前身)も、第1回大会の参加8チームのうち半分は師範学校だった。そのなかの一つに京都師範がある。藤田さんが入部したころには、すでに日本フートボール大会は、主催の毎日新聞社の提案によって地域予選制をとり、全国的なスケールの大会になっていた。
 この全国大会(当時は全国中等学校蹴球選手権大会)に藤田さんは第10、12回と2度出場している。30年の第12回大会には、川本泰三(市岡中学)右近徳太郎(神戸一中)といった後にベルリン・オリンピックで活躍した選手たちも出場していた。京都師範は2回戦(準々決勝)に出場し、東京の高等師範付属中学という名門校と対戦して敗れている。
「全国大会は2回とも大差で負けてしまったが(第10回は朝鮮地方代表の平壌崇実と対戦)12回大会が終わってからチームが強くなった」とは藤田さん自身の感想。
 この世代の京都師範の先輩たちと、私も大戦後に何度か試合をしたが、キックがしっかりしていて、ドリブルの上手な人が多く、その技術の確かさや体格の良さから見れば、むしろ師範学校を卒業してから伸びたのかもしれない(選手の生涯にはそうした例もある)。


京都のサッカー人を一丸にして

 私が藤田さんに会ったのは、第2次大戦が終わって軍隊から帰り、神戸の家が空襲で焼失したため、戦火のなかった京都に住んでいたとき。
 当時、京都府庁に勤め、京都サッカー協会の理事長だった(次の年に会長に)藤田さんは、京都師範の後輩たちの面倒を見るとともに、京都の発展のためには、師範学校の仲間だけでなく京都大学をはじめ各大学の出身者を一つにした、技術的にも模範となるクラブチームをつくりたいという構想を持ち、兄・太郎とともに私もその仲間に引き込まれた。
 一緒にプレーしたときに、藤田さんがマシューズ型のボールをまたぐフェイントステップを軽やかに踏むのを見て、驚いたこともあり、京都のサッカーのレベルが、神戸や大阪に比べて劣ることはないと思ったものだ。
 その選手たちと関西学院大のOBなどを主力とする神戸や大阪の代表と戦うのは、私にも楽しい経験だった。技術をレベルアップし、強いチームをつくって、京都のサッカー人の励みとするだけでなく、普及にも力を入れた。


京都サッカー友の会を設立

 東京オリンピックの2年前に、どこよりも早く“京都サッカー友の会”を立ち上げた。
 サッカーの選手やチームをバックアップする京都全体の後援会で、会員を集め、その努力によって入場券販売のネットワークなどをつくり上げた。東京オリンピックからメキシコへ向かう時期に、日本代表の強化のために外国のチームを招いて試合を数多く行なったが、京都・西京極競技場はその主要な開催地であった。友の会の組織を通じて、何千人かの観客を集めることができたからだった。
 こうした地方での技術アップ、普及への努力は京阪神のなかでの“後進地”を“先進地”へと押し上げる。
 1959年(昭和34年)の第37回全国高等選手権大会で、山城高が京都の代表として初めて優勝した。藤田さんが28年の全国大会で大敗してから31年がたっていた。そして、その山城高は第40回大会で再び決勝に進み、修道高に敗れはしたが、“大器”釜本邦茂を全国にアピールした。


釜本邦茂

 今のように、多くの優秀な素材がサッカー部の門を叩くのと違い、釜本のような逸材がどのように伸びていくかは、太秦中や山城高だけでなく京都協会あげての問題――藤田さんは個人的にも、この大器の成長を支える大きな力だった。釜本たちの登場によって、京都から柱谷兄弟をはじめ、続々とスターが生まれた。
 サッカーだけでなく、京都のスポーツ全体の発展にも心を配った。大戦争の戦禍のなかから、日本のスポーツ復興のためにと始まった国民体育大会(国体)の第1回大会は戦災のなかった京都で開かれた。そのときに開催の苦労を引き受け、成功させて以来、藤田さんは京都のスポーツの主(ぬし)ともなった。
 筋を通し、実際の仕事の細かいポイントに目配りする手腕は、役所勤めにも発揮された。府の衛生部時代、予防注射による被害が出たとき、いち早く謝罪と見舞いに一軒一軒を訪れた(当時としては)異例の決断と実行力は、多くの人に感銘を与えたものだ。
 その役所を退き、自ら会社を設立して、さらにサッカーへの傾倒が続く。1950年代からJFAの常任理事として、全国的な視野での活動が始まっていた。
 自らも英語を話す藤田さんは、海外への目も早くから持っていた。と同時に、サッカー興隆のためのメディアとのつきあいも大切にしていた。
 歴史の町、京都は外国人にとっても魅力のある町。京都人特有の行き届いた藤田さんのもてなしは、訪れた外国人チームやサッカー人の心をとらえた。FIFA(国際サッカー連盟)の会長であったサー・スタンレー・ラウスもその一人であり、デットマール・クラマーもそうだった。そしてまた、こうした要人を京都に招いたときにはメディアとの会見を用意した。ニュース報道への着意とともに、内にこもりがちな日本のメディアに海外への目を開かせたいという藤田さんの気持ちの表れだった。


JFA財政の再建。京都サンガの誕生

 日本サッカーが東京、メキシコ両オリンピック大会へひた走った積極政策の後、第5代・平井富三郎会長(1976〜87年)のとき、財政立て直しが必要となり、藤田さんは副会長として長沼健専務理事とともに努力を続けた。
 新日鐵の社長、会長を務め、経済界の大物であった平井会長が太鼓判を押すほどの健全経営となり、平井会長が次の会長に藤田さんをと願ったのは自然な流れだった。
 財界、経済界でもなく、元日本代表でもない藤田さんが、1987年(昭和62年)から92年(平成4年)までの第6代の会長を務めた。
 Jリーグというプロリーグをつくるための大切な準備の時期だった。京都も藤田さんが導いた地盤の上に、パープルサンガが生まれた。
 サッカーとともに歩んだ人生を終えたのは、待ちに待った2002年のワールドカップの決勝を自分の目で見てしばらく後の同9月27日、葬儀の日に棺を担う後輩たちのなかに、釜山でのアジア大会の最中に駆けつけた、サッカーチーム団長の釜本邦茂の姿があった。


藤田静夫・略歴

1911年(明治44年)2月5日生まれ。
1925年(大正14年)京都師範学校に入学。2年生からサッカー部に入る。
1928年(昭和3年)1月、第10回全国中等学校蹴球選手権大会(現・高校サッカー選手権大会)に出場、1回戦で敗れる。
1930年(昭和5年)1月、第12回同大会に出場、2回戦で敗退。
         3月、同校を卒業。京都府の教員を経て、京都府庁に勤務。
1935年(昭和10年)24歳で京都蹴球協会(現・京都サッカー協会)理事長。
1947年(昭和22年)同協会会長。
1954年(昭和26年)日本サッカー協会常任理事。
1953年(昭和28年)京都府を退職し、株式会社京竜産業を設立(現・京竜ビル)。
1956年(昭和31年)京都市体育協会会長。
1973年(昭和48年)4月、日本体育協会理事。
1976年(昭和51年)日本サッカー協会副会長。
1981年(昭和56年)京都サッカー協会名誉会長。
1987年(昭和62年)4月、日本サッカー協会会長。
1989年(平成元年)京都体育協会会長。
1992年(平成4年)5月、日本サッカー協会名誉会長。
1994年(平成6年)4月、日本サッカー協会名誉顧問、京都市体育協会名誉会長。
1998年(平成10年)京都府体育協会名誉会長。
2000年(平成12年)4月、日本サッカー協会最高顧問。
2002年(平成14年)9月27日、死去。


★SOCCER COLUMN

Jリーグ開幕を果たした第7代島田会長
 第7代島田秀夫会長は、東京の高等師範付属中学(1933年卒業)から水戸高等学校(現・茨城大)という名門コースを経て、大学は東北帝国大(現・東北大)で、卒業後、三菱重工に入り、三菱グループのサッカー支援の柱でもあった。第6代藤田静夫会長が京都師範のときに、全国大会で高等師範に敗れているが、島田さんより少し年長の先輩が相手だった。
 1980年(昭和55年)から92年(平成4年)まで副会長として、平井会長、藤田会長を支え、誠実な人柄で難問題の舵取りをしつつ、会長となってからは93年のJリーグ開幕のエポック・メークの時期を取り仕切った。
 副会長時代の島田さんは、私や大谷四郎(故人)さんが性急なクラブ育成実現論を吹っかけるのを、やんわりと受け止める姿が印象的で、謙虚な姿勢はJリーグが華やかになっても「先輩たちの後を受けて、私がいい目をさせてもらって」と変わることはなかった。

クラマーを招いた第4代野津謙
 第4代野津謙会長は、初めての生粋のサッカー畑からの会長だった。1899年(明治32年)3月に広島で、広島一中(現・広島国泰寺高)第一高等学校を経て東大に進み、自らも21年(大正10年)の第5回極東大会の日本代表(全関東蹴球団)の選手として、上海でのフィリピン(1−3)中華民国(0−4)との試合に出場した。日本のレベルアップのために旧制高校の大会が必要と考え、「インターハイ」の創設を提唱し、実行した。30年(昭和5年)に東大を中心とする日本代表が、東京での第9回極東大会で成果を挙げたのは、野津さんのインターハイによって、旧制高校の選手のレベルが上がり、ひいては東大のレベルアップとなったのが伏線。
 55年から76年まで20年間会長を務め、東京オリンピックへ向かっての強化策として、外国人コーチを招くことを決め、自らデットマール・クラマーに会って、その人物を見て決定したのは、よく知られた話。ドクターとして漢方にも造詣が深く、クラマーの足の故障治療に自ら当たったこともある。少年育成にも早くから注目し、ドイツのスポーツユーゲントにならったスポーツ少年団創設の中核となり、東京オリンピック当時には、スポーツ少年団本部長を務めた。昭和の始めに早くからFIFAに目を向け、70年代にワールドカップの招致を提唱した。


(月刊グラン2005年7月号 No.136)

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