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どん底の時代から栄光の銅メダルまで、日本代表を押し上げたピッチ上の主 平木隆三(上)

1日8キロ、73歳のトレーニング

 さる5月22日、日本サッカー協会(JFA)は、「日本サッカー殿堂」の第1回掲額セレモニーを行なった。そのなかに、メルボルン、東京両オリンピック出場者として、グランパスの初代監督、平木隆三の名があった。1931年(昭和6年)生まれで、長沼健、岡野俊一郎といった元JFA会長と同年輩。長くピッチ上でのプレーにこだわり続けた平木は、東京オリンピックではチームの主将として、監督、コーチとなった2人を選手の側から支え、また4年後のメキシコ・オリンピックでは、相手チームの偵察と戦力分析で銅メダルへの道を切り開いた。
 若い選手時代はフォームの美しいプレーヤーだった。ベテランとなって、若い仲間を鼓舞し、自ら雑用係を買って出る面倒見のいい“アニキ”でもあった。優れたディフェンダーであるとともに、チームの牽引力としての働きが多くの共感を呼んでの殿堂入りだった。
 今も“ねんりんピック”などの年長者のサッカー大会には“愛知”のユニホームでプレーする平木の掲額は、グランパスをはじめ名古屋のサッカー人にとっても誇るべきもの。学生時代からそのプレーを見続け、指導者となってからも現場の貴重な意見を聞かせてもらった私にも、大きな喜びだった。
 フォームが美しいと前述したが、平木は73歳になっても姿勢がいい。それは“背筋をピンと伸ばして”という感じではなく、極めて自然体で“まっすぐ”である。もちろん、お腹も出ていない。1日2回散歩するという。愛犬とともに4キロを走ったり、歩いたり――2回だから合計8キロ。月に何回かのサッカーの試合や練習に備えてのためである。
 ボールを蹴るのは楽しいが、楽しむためには普段から体を動かしておきたいという。サッカーの虫の多くは、年を重ねるにつれて「アームチェア・フットボーラー」となり、テレビを見て批評し、仲間と語り、インターネットで意見を交換するだけになりがちだが、ずっと「ピッチの主」であった平木は、70歳を超えてもまだ“現場の人”なのだ。


堺の“やんちゃ”がサッカーの虜に

 大阪府堺市浜寺の生まれ。堺中学に進んで、学校の制度が変わり、岸和田高校へ。ここでサッカーを本格的に始める。岸和田は今も男衆の町で、大戦が終わった直後はけんかが早い若者が多かった。そのなかで、平木家の兄弟は“やんちゃ”ではちょっと名が知られていた。そんな元気者の一人、隆三が打ち込んだ相手がサッカーボール。小学生のころに、フットベースボール(キックボール)で遊んだこともある。日本独特のベースボールのホームベース上でボールを蹴って、塁へ走る競技で、隆三は遠くへ飛ばすよりも、守っている外野の前へポトリと落とすのが得意だったというから、すでにボールコントロールのこつをつかんでいたのかもしれない。
 高校3年生のとき、全国高校サッカー選手権大会に出場した。前年に決勝まで進んだ宇都宮高校が優勝候補で、岸和田は準決勝で宇都宮に敗れた。この1951年(昭和26年)の大会の世代が後にメルボルン・オリンピックの日本代表の主力となる。また、古河電工の仲間として長く付き合うことになる八重樫茂生も盛岡一高で出場していた。高校を卒業するとすぐに関西学院大学に入る。上級生には長沼健をはじめ、その後の長いサッカー人生を共にする仲間がたくさんいた。
「高校ではインナー(攻撃的MF)かハーフバック(守備的MF)をしていたのに、関学ではFB(フルバック=DF)をやらされた。そのいきさつは分からない」
 大きくはないが体にバネがあり、動き回ることが好きで、自分に適していると思っていたMFでなくDFに回されたのが、いささか不満だったらしい。
 このときの関学はFWに木村現、長沼健、樽谷恵三、村田忠男、徳弘(水野)隆、HBに井上健、柴田吉幸といった優れた上級生がいたために、レギュラーとしてすぐチームに役立たせるためには、FBしか空いていなかったという事情もあっただろう。しかし、監督のカンちゃんこと岡村寛治(故人)は進んだ考えの持ち主だったから、サイドのFBにボールテクニックの上手な選手を置こうとしたのだと、私は思っている。FBは大柄で力強いというそれまでの通念とは違い、敏捷でテクニックのある現代的なサイドDF平木隆三が、51年秋に誕生した。
 関学はこのころ、メンバーが充実し、優秀な高校選手の入学も続いて、関西学生リーグでは優勝の常連。東西学生王座決定戦でも関東勢に勝てる勢力だった。
 学生にOBを加えて編成する関学クラブ(全関学)は、天皇杯では愛知県刈谷市で開催された第30回(50年)に始まり、第33回(53年)第35回(55年)と6年間に3回も優勝した。学生仲間では一段上のプレーヤーであった平木にとって、経験のある年長者とチームを組むことは大きなプラスであった。ボールを奪う楽しみも知り、FBのポジションも面白くなった。いい環境のなかで、プレーヤー・平木は自分の技をしっかり鍛えた。
 JFAの指導者たちが、そうした平木に注目したのは当然といえる。


学生の日本代表からフル代表へ

 1953年(昭和28年)夏、平木隆三は西ドイツのドルトムントで開催された国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)に参加する。すでに52年のヘルシンキ・オリンピックには、日本のスポーツ界も参加できるようになっていた。ただし外貨事情のために、多人数が出かけるチーム競技の参加は許されなかった。そこでJFAは、次代を担う若いプレーヤーを、この学生大会に派遣することに決めたのだった。関学から平木、長沼、木村、徳弘(水野)、井上の5人が選ばれ、東大の岡野俊一郎(現・JFAミュージアム館長)や中大の三村恪一、早大の山地修、小田島三之助、慶応の鈴木徳衛、小林忠生、関西大の筧晃一、岩田淳三、明治の山口昭一、立教の高林隆、玉城良一、東京教育大(現・筑波大)の村岡博人などとともに、8月の大会に出場(2勝2敗で6位)し、その後、ヨーロッパ各地を回って見聞を広めた。合計57日間に及ぶ長期の欧州ツアーは、サッカーの本場を体で感じただけでなく、日本とは違った社会を見たことは、若者たちに大きなプラスとなった。
 22歳の青年、平木はこのとき民泊で世話になったマクワルトさん一家の厚意が忘れられず、今もその家族との親交を続けている。
 学生の日本代表となった次は、フル代表である。
 翌年、54年に入ると、FB平木は3月にワールドカップ・アジア予選の韓国戦に出場。さらに5月にはマニラでの第2回アジア大会の代表にも選ばれた。日本代表との長い付き合いが、いよいよ始まった。


平木隆三・略歴

1931年(昭和6年)10月7日、大阪府堺市浜寺で鉄工所を経営する父・牧三、母・恵奈子の5人兄弟の三男として生まれる。
1948年(昭和23年)岸和田高校入学。本格的にサッカーを始める。
1951年(昭和26年)1月、全国高校サッカー選手権大会の大阪代表として出場、ベスト4に。ポジションはインサイドFW(今の攻撃的MF)。
            4月、関西学院大学入学。
            9月の早関定期戦でレギュラー(DF)。
            秋の関西学生リーグ、12月の東西学生王座決定戦で優勝。このときのFWに長沼健(現・JFA最高顧問)がいた。
1953年(昭和28年)西ドイツ・ドルトムントで開催された国際学生スポーツ週間に出場。
1954年(昭和29年)3月、ワールドカップ・スイス大会予選、対韓国戦(第2戦)に出場。
            5月、第2回アジア大会代表に。以来、10年間日本代表選手として活躍。
1956年(昭和31年)メルボルン・オリンピック・アジア予選で韓国と2試合(2−0、0−1)の後、抽選で代表に。
            11月、メルボルン大会は1回戦、対オーストラリアに0−2で敗退。
1957年(昭和32年)関西学院大学卒業。湯浅電池に入社。
            10月、日本代表の中国遠征に参加。
1958年(昭和33年)古河電工に入社。
            5月、第3回アジア大会に参加。
1959年(昭和34年)12月、ローマ・オリンピック・アジア予選、対韓国戦は1勝1敗(0−2、1−0)、得失点差で退く。
1960年(昭和35年)5月、古河電工が天皇杯で優勝、企業チームの初制覇となる。
            夏の日本代表欧州ツアーでD.クラマーの指導を受ける。
            11月、ワールドカップ・チリ大会・アジア予選、対韓国戦(ソウル)は1−2で敗れる。
1961年(昭和36年)5月、古川電工が天皇杯2連覇。
            6月、ワールドカップ予選、対韓国戦(東京)も0−2で敗れる。
1962年(昭和37年)8月、第4回アジア大会に出場、1勝2敗で1次リーグ敗退。
1963年(昭和38年)古河電工の監督権選手に。
1964年(昭和39年)10月、東京オリンピック日本代表主将に。
1965年(昭和40年)新しく誕生した日本サッカーリーグで古河電工は3位。選手としては翌年を含めて合計6試合に出場。以後、指導者に。
1968年(昭和43年)メキシコ・オリンピック日本代表チームのコーチに。対戦相手の偵察、戦力分析に働き、チームの3位、銅メダル獲得に貢献。
1969年(昭和44年)7〜10月、第1回FIFAコーチングスクール(検見川)でD.クラマーの下でコーチを務める。
1972年(昭和47年)天皇杯の改革、JFA加盟全チーム参加への道を開き、その推進力となる。
1976年(昭和51年)JFA理事に。
            長沼専務理事の下に選手登録制度の改革を実施。
1988年(昭和63年)5月、JFA専務理事に。
1991年(平成3年)3月、JFA退任、名古屋グランパスエイト監督就任。
1993年(平成5年)同監督を退任。


★SOCCER COLUMN

第29回全国高校選手権大会
 太平洋戦争の終結から5年半、学制改革もひとまず落ち着き、サッカーも復興に向かっていた1951年(昭和26年)1月2、4、6、7日に全国高校サッカー選手権が西宮球技場で行なわれた。この大会には、後にメルボルン・五輪の代表となる選手がそろっていた。
 優勝した宇都宮高にはDFの小沢通宏、FWの岩淵功。決勝で敗れた小田原高にはFWの内野正雄、準々決勝で宇都宮高に敗れた岡山の関西高には景山(高森)泰男がFWに、一回戦で退いた東北の盛岡一高のCFには八重樫茂生がいた。岸和田高は準決勝まで進み、宇都宮高に敗れている。宇都宮高のFWには筧晃一もいた。彼はメルボルン代表にはならなかったが、関西大に進み、関西学生りーぐで平木のライバルとなった。

FIFA世界選抜チームとともに
 1968年(昭和43年)秋のメキシコ・オリンピックの直後、ブラジル・サッカー協会50周年の催しで、ブラジル代表対FIFA世界選抜の試合がリオデジャネイロのマラカナンスタジアムで行なわれた。
 世界選抜チームの監督は、当時、FIFAコーチであったデットマール・クラマー。選手には西ドイツのベッケンバウアーやオベラーツ、アルゼンチンのペルフーモ、ハンガリーのフロリアン・アルバートやユーゴのジャイッチ、スペインのアマンシオ、GKにはソ連のレブ・ヤシンとウルグアイのマズルケビッチが選ばれていた。クラマーはメキシコ・オリンピックの得点王となった釜本邦茂を加えたかったのだが、本人が疲れていることもあって辞退し、日本からは選手ではなくアシスタント・コーチとして平木隆三がクラマーの補佐役に選ばれた。
 ここで平木は世界中から集まったスタープレーヤーを、わずか2日間で一つのチームにまとめ上げていくクラマーの手腕を目の当たりにする。選手たちを2人一組にしての部屋の割り当てから、室内でのユニホームの並べ方、彼らが長い旅の後、ホテルの部屋に入ったときに名誉ある世界選抜の一員であることを再認識させるための気配り、そして、軽い練習と休養の取らせ方やスター選手の組み合わせ、試合前の指示と選手たちの気持ちの鼓舞――平木の詳細なメモは、偉大なコーチのコーチ学の実践の一つの例として長く残るもの。平木の蓄積のなかには、こうした指導者にとっての多くの宝が詰まっている。


(月刊グラン2005年8月号 No.137)

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