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どん底の時代から栄光の銅メダルまで、日本代表を押し上げたピッチ上の主 平木隆三(下)

 日本サッカーが「いま」の「かたち」になるまでに、その時々にあって大きな力となった人を紹介する『このくに と サッカー』は、前号から名古屋グランパスの初代監督、平木隆三氏に移っている。
 チームの看板となるはずのイングランドの大スター、リネカーの故障もあって、グランパスの監督としては成績は上がらなかったが、選手としては1954年(昭和29年)から10年間、日本代表を務め、メルボルン、東京の2度のオリンピックに参加し、また、メキシコ・オリンピック(68年)ではコーチとして相手チームの偵察役を務めて、銅メダル獲得の陰の力となった。
 また、長く技術指導にかかわったこと、さらに、JFAの理事時代に長沼健専務理事を助けて、天皇杯のオープン化や、選手登録制度の改革といった地味ながら、他のスポーツが手をつけていない重要な改革の実務面で働いた業績を忘れることはできない。
 前回は岸和田高校から関西学院大へ進んで、やがて日本代表の右FBとなるまでをたどった。今回は、代表チームのプレーヤー、キャプテン、コーチ時代を主に――。


56年メルボルン五輪予選

 1953年(昭和28年)夏、西ドイツで開催された国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)に参加した日本学生選抜チームのひとりとなって、初めてのヨーロッパを経験した平木隆三は、次の年の3月、フル代表に選ばれ、同14日のワールドカップ予選・韓国戦(第2戦)に出場した。
 3月7日の第1戦は降雪のために泥田のようになった悪条件もあって、1−5で大敗しただけに、晴天でピッチコンディションの良い第2戦は、日本側にとって1勝を挙げるチャンスだったはずだが、韓国は日本のパス攻撃に苦しみながら2−2で引き分けに持ち込んだ。当時は1勝1敗のときは得点計算でなく、再試合の規定で、それに望みをかけていた日本としては目算外れとなった。必勝を期してベテランを主力に組んだラインアップに、23歳の平木が選ばれたのは、竹腰重丸監督の彼への期待の強さを表すものといえるだろう。
 この敗戦に続いて5月の第2回アジア大会でも成績の出なかった日本代表は、大幅なチームの若返りを図り、56年のメルボルン・オリンピック予選に向かう。
 初めての南半球でのオリンピック夏季大会は、日本の冬にあたる11月下旬から12月に開催。サッカーは、このときに初めて世界各地に地域予選制が導入され、日本は6月3日と10日に東京の後楽園競輪場内の特設ピッチで、アジア最終予選を韓国と争った(FIFAの規定ではワールドカップ予選も、このオリンピック予選も、ホーム・アンド・アウェーだったが、当時の韓国は日本チームの入国を認めなかった)。
 競輪場での試合となったのは、そのころ、東京での第3回アジア大会(58年)のために、国立競技場は改装工事に入っていて、東京周辺で有料試合のできるスタンド付きの芝生のグラウンドは、後楽園球場に隣接した競輪場の走路の内側にあるピッチだけだったからである。
 GK:古川好男、FB:平木隆三、小沢通宏、景山泰男、MF佐藤弘明、大村和市郎、内野正雄、小林忠生、FW:鴇田正憲、八重樫茂生、岩淵功のイレブンは、第1戦を2−0で勝った。チームただ一人のベテラン、31歳の鴇田のウイングプレート八重樫の広い動き、内野の突破力、岩淵のシュートがうまくかみ合って奪ったゴールを、DF陣が体を張って防いだ。韓国は試合経験でも、技術力でも上だったが、前夜の雨でスリッピーな芝に悩まされた。
 第2戦は負傷の鴇田に代えて、岩谷俊夫を起用し、八重樫をサイドに置いた。はじめは攻勢に出たが、内野が相手DFと衝突して足を痛めて走れなくなり(当時は交代はなし)、10人同様の不利な状況となって、0−2で敗れた。1勝1敗、得失点差も同じで15分ハーフの延長を行なって0−0、抽選で日本がメルボルン行きをつかんだ。
 押せ押せムードの韓国の攻撃を2点で食い止めた守備陣の働きは、すばらしかった。
「選手全員が、彼らの一生において、そうたびたびは経験できないがんばりを見せ、文字通り全力を出し尽くした」とはコーチの川本泰三のリポートである。
 残念ながら、この若い力の結集は、本番のメルボルンでは発揮されずに1回戦で(ノックアウトシステムだった)、開催国、オーストラリアに敗れた。


60年クラマーとの出会い

 代表チームの不振はメルボルン・オリンピックにとどまらず、1958年(昭和33年)の東京での第3回アジア大会、さらにはローマ・オリンピック予選へと続く。このオリンピック予選での対韓国との2試合は、59年12月13、20日、後楽園競輪場で行なわれ、第1戦は0−2、第2戦は1−0。1勝1敗、得失点差の負けとはいっても、実力の差は歴然としていた。
 64年の東京五輪を控えたJFAは、ここで外国人コーチによるレベルアップを図る。60年8月はじめから9月末までの2ヶ月間にわたって、西ドイツ、スイス、ソ連、チェコ、イングランド、イタリアなど欧州6ヶ国を転戦した平木や八重樫たち日本代表は、デュイスブルグのスポーツ・シューレ(学校)で、デットマール・クラマーと初めて顔を合わせ、その指導を受ける。
 ケガのために、若いうちに選手生活からコーチ業に入ったクラマーは、当時33歳。西ドイツ協会のヘルバーガー・コーチに、その指導力を認められ、27歳の若さで西部地区協会の主任コーチという重責を担って、すでに6年を経ていた。
 今から思えば、この時期にデットマール・クラマーに会えたことが、日本サッカーにとっての大きな“運”であったというほかはない。29歳の選手、平木にとっても、この慧眼(けいがん)のコーチとの出会いは新しい視点を開き、プレーに磨きをかけるチャンスとなった。
 代表チームの中にも、40年代生まれの若い選手が加わってきた。
 宮本輝紀(故人)、杉山隆一(第1回殿堂入り)といったアジア・ユース経験者――いわばU−20の年齢で国際舞台を経験した新世代の登場だった。選手たちの進歩が見え始めたころ、代表チームの監督が高橋英辰(ひでとき)から長沼健に代わる。ロクさんこと高橋監督は人柄も見識も優れているが、今のチームには若い監督が必要というクラマーの主張で、コーチ・岡野俊一郎とともに62年12月の三国対抗から長沼、岡野のペアによる新しいリーダーが誕生した。


大人(たいじん)健さんを助けて

 1歳年長の長沼は平木隆三には関学でも、古河電工でも先輩。常に同じ釜の飯を食ってきた間だった。
「こちらが酒を飲んで、深夜までグダグダいうのを、アルコールに無縁の健さんはコーヒーを飲みながら、ずーっと付き合ってくれるのですからね。まさしく大人です」
 ――だが、その「大人」のためならと、平木はチームのまとめ役として働く。
 1964年(昭和39年)9月、東京オリンピックのメンバーが発表された。メルボルン・オリンピックの仲間で残ったのは平木隆三と八重樫茂生の2人だけだった。夏のヨーロッパ遠征に参加していた小沢通宏は、最終のところで選から漏れた。
 63年の夏に大きな負傷をして以来、代表のレギュラーから遠ざかっていた平木だったが、出場のチャンスがあればとコンディションを整えるこのひたむきさを、クラマーは見逃さなかったし、仲間や後輩への気配りを見せる平木の日常を知る長沼は、主将として、若いプレーヤーのいい兄貴分としての配慮を期待したに違いない。
 選手たちの食事や健康を気遣い、練習が終われば、クラマー直伝の栄養ドリンク「タイガー・カクテル」を作る平木の日々が続いたのだった。
 若い監督、コーチと選手一丸となっての東京オリンピック・ベスト8の次の目標は、メキシコ・オリンピックの予選突破と本大会の上位進出だった。
 65年に開幕した日本サッカーリーグ(JSL)では、ベテランぞろいの古河電工が滋味あるプレーを展開。選手・平木は、ときに健在ぶりを見せた。
 68年のメキシコ・オリンピックは長沼、岡野のペアにとっては2回目のオリンピック本番。高地の影響の出るメキシコが舞台とあって、綿密な計画が立てられ、自らのコンディション調整と同様に、相手チームの戦力分析という重要なパーツを平木が担った。
 大会前に入手した情報の上に“平木メモ”を重ねて、コーチ、監督による戦略決定の仕組みは、3位、銅メダルの成果となった。日本人と見て、練習場に入るのを禁ずる相手もあり、そのため、ひげを生やしたりもした。グラウンド近くの子どもたちと仲良くなって、彼らにまぎれて練習を見たこともあった。
 短いパスでの組み立てといった情報が主のスペインが、ロングパスもありと報告したこともあった。長くクラマーの指導を受けてきたことが、主力プレーヤーのボールの持ち方、シュートやキックの力、技術やチームワーク分析の力に発揮された。大会後、協会機関誌に掲載された“平木メモ”は、今、読んでも面白く新鮮である。
 メキシコでの銅メダルの後、しばらく日本代表の低迷期が続いた。ただし、サッカー界全体の停滞は許されなかった。
 第1回FIFAコーチングスクールでクラマーを助けて、世界で初のこの企画を成功させ、日本でのコーチ育成の基礎をつくり、さらに資格を得たコーチ研修制度を組んで、能力のアップを図った。こうした地味な仕事の実務をこなすのが、JFAの理事となった平木の仕事でもあった。
 天皇杯のオープン化も、プレーヤーの登録制度も、まだアマチュアであった時代に、先取りした改革が、93年(平成5年)のプロ化、Jリーグの大成功のひそかな伏線になった。
 プレーヤー、コーチとして常にピッチの主(ぬし)であったこの人は、次の世代のピッチの主たちのためによい環境を残した。


★SOCCER COLUMN

技術委員長の規制緩和がさわやかサッカー教室に
 セルジオ越後が1978年(昭和53年)にコカ・コーラ社のバックアップで「さわやかサッカー教室」を開設するとき、一つ問題点があった。
 それはセルジオがコーチの資格を持っていないこと。すでにコーチ育成制度を発足させていたJFAの指導関係者の間から、セルジオの資格うんぬんが取りざたされ、「さわやかサッカー教室」そのものの開設が危うくなったことがある。
 セルジオからの話を聞いた私が、当時、JFAの技術委員長であった“ペラさん”こと平木隆三に相談した。
「コーチ資格のない者が指導するのは、まずいということになっている。といって、彼の少年指導のうまさは周知の事実ですね」と答えていた彼は、しばらくすると「特定認定コーチ」という制度を考え出した。
 おかげで、セルジオの「教室」は発足でき、全国津々浦々で人気を呼び、サッカー興隆の力となった。セルジオは折に触れ「あの教室がうまくスタートできなかったら、私はブラジルに帰っていたでしょう」と当時を振り返るが、これはひとえに、平木技術委員長の杓子定規でない見事な処理のおかげだった。

大ケガの相手は名手・オベラーツ
 1963年(昭和38年)6月13日、東京オリンピックを目指す平木隆三にとって、最悪の日がやってきた。西ドイツで合宿していた日本代表は5日に西ドイツ・オリンピック代表、9日に西ドイツ・ジュニア代表と試合をした(0−4、0−5)。13日にはブッバタールで再び西ドイツ・ジュニア代表と対戦した。このチームにいたのが、後に西ドイツ代表で活躍するヴォルフガング・オベラーツ。そのオベラーツとタッチライン際でスローインのボールを奪い合ったさいに、左足ひざ関節を痛めてしまった。クラマーは足を見るなり「半月板だ」といった。
 このケガは予想外に長引き、その間、失ったA代表チームのDFのポジションに復帰することはなかった。
 プレーヤーにケガはつきもの。選手・平木にも何度かあったが、30歳を超えてからの故障は回復が大変だった。その32歳の彼にぶつかった19歳の若者が、あのオベラーツとは。ワールドカップ3回出場(66年準優勝、70年3位、74年優勝)、パスの名手で左足の芸術家といわれ、今、1FCケルンの会長でもある。やっぱり平木隆三ともなれば、ケガの相手も大物というべきか――。


(月刊グラン2005年9月号 No.138)

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