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ドイツ語の指導書をテキストに慶応ソッカー部の基礎を築いた初代キャプテン 濱田諭吉

 前号はメキシコ・オリンピック銅メダルに功績のあった平木隆三さん、グランパスの初代監督でした。平木さんもすでに70歳を超え、選手時代の美しいプレーは“伝説”となりましたが、今回の登場者は平木さんよりもさらに古い時代――1927年(昭和2年)〜28年の慶応義塾大学ソッカー部初代キャプテン、濱田諭吉(故人)さんです。
 今から80年前にドイツ・サッカーの指導書を自ら翻訳し、それをバイブルとしてチームを強化、のちに慶応大の黄金期を築いて、日本サッカーにも大きな影響を残した、一群の若者たちのリーダーです。


コーチの系譜 ネルツ、ヘルバーガー、クラマー

 ドイツ人コーチ、デットマール・クラマー抜きで、今の日本サッカーの繁栄を語ることはできない。45年前に初めて来日し、東京(1964年)メキシコ(68年)の両オリンピックの日本代表の強化を助けただけでなく、日本サッカーそのものの根本からの改革の基礎を築いたことは広く知られている。
『このくに と サッカー』の連載でも4回(2001年3〜6月号)にわたって、その努力のあとを紹介している。私にとっても、長年の友人である彼は、今年80歳。今も元気で、この秋、11月中旬には「日本におけるドイツ年」の催しの一環として来日し、サッカーフォーラムに出席してくれることになっている。
 この最長老の世界的指導者、クラマーの才能を見抜いたのは戦後のドイツ・サッカー復興の功労者、ゼップ・ヘルバーガー(故人、54年ワールドカップ優勝の西ドイツ代表監督)である。そのヘルバーガーはまた、戦前のドイツ・サッカー協会主任コーチであったオットー・ネルツのアシスタントであった。1892年(明治25年)生まれのネルツ(46年没)は、イングランドの指導法を研究し、独自に分析してドイツ・サッカーの指導テキスト『フスバル(FUSSBLL=英語のフットボール)』を作り、34年ワールドカップ・イタリア大会では代表チーム監督として、3位入賞を果たした。彼の仕事はヒトラーが始めた戦争によって中断したが、戦後、ヘルバーガーによって受け継がれ、ドイツ・サッカー興隆が築かれた。そのドイツ・サッカー協会の初代主任コーチ、ネルツを信奉したのが濱田諭吉だった。


密着マーク、辻選手の思い出

「1年生の私が、ある日、キャプテンの島田晋さんに連れられて濱田諭吉さんの家を訪ねた。濱田さんは紺かすりの着物を着て、端然と座っていた。古武士のようであった。すると、もう一人の男が現れた。この近くに下宿していた大前靖であった。3人はサッカーのことばかり話していたが、私はその内容が良くわからなかった。彼らの話は次第に熱気を帯びてきた。私はこのときの印象が慶応ソッカー部の根本精神であると思い、今に至るまではっきり覚えている」
 これは1936年(昭和11年)に慶応を卒業した辻安蔵が、ソッカー部の50年史『慶応義塾体育会ソッカー部50年』(三田ソッカー倶楽部、1978年8月1日発行)に寄稿した一節。29年、辻が入学した年の話のようだから、濱田はすでに卒業していて、島田がキャプテンのときだった。
 1年生にはよくわからない難しいサッカー談義を、熱心に繰り返していた当時の若いフットボーラーの様子が知れる。辻はこの時期、MFで密着マークに強く、当時の早大のシュートの名人、川本泰三(ベルリン・オリンピック代表)が、辻にずっとまとわりつかれて苦労したという話を聞いたことがある。残念ながらはまだその人に、私はお目にかかったことはないが、同時代の田辺五兵衛から彼の理論家ぶりを聞かされたこともあった。


中学で選手経験のない主将

 ラグビーでは日本で最も古い歴史を持つ慶応に、サッカーのクラブが誕生したのは1922年(大正11年)。神戸一中の範田竜平、広島一中の深山静夫、明倫中学の下出重喜、東京高等師範(現・筑波大)付属中学の斉藤久敏といった各地の中学(もちろん旧制)で、サッカーを覚えた選手が入学して、クラブをつくろうということになった。
 そのころ一般的であったフットボールあるいは蹴球という言葉を、クラブ名につけることは、体育会のなかの先輩であったラグビー部の反対で許されず、そのころ日本ではなじみの少なかったサッカー(ソッカーと呼んだ)を使うことで、27年(昭和2年)に大学公認の体育会の部となった。
 このソッカー部の初代キャプテンが濱田諭吉だった。50年史には、濱田キャプテンのそれまでについての記述は少ないが、神戸一中の25回生で、おそらく4年終了で23年に慶応に入学したはずだ。中学ではサッカー部員でなかったから、第一期黄金時代に向かう神戸一中のサッカー部での体験はない。その気風はどこかで感じていたかもしれないが――。したがって、(故人)技術の上で、特に優れているわけでもなかったが、人間的な魅力と部員のほとんどが予科生で、彼が一番の年長であったことから、キャプテンに選ばれたのだろう。
 彼より少し若い松丸貞一がいた。その同期に五中の長坂謙三や神戸一中の豊田来吉がいた。
 こうした有能な後輩を加えて、部の形が整い、この年、東京カレッジリーグ(関東大学リーグ)の2部で優勝。27年のソッカー部の公認とともに昇格した1部リーグでの戦いが始まる。
 そのころ関東の大学では、日本サッカーの先駆者、東京高師を東大が追い抜く形となり、それを早大が追っていた。東大には旧制高等学校の大会、インターハイの興隆が選手供給の湖となり、早大はビルマ(現・ミャンマー)人、チョー・ディンの指導を最初に受けて、近代サッカーへの歩みを早めていた。そうした先輩校に追いつこうとする濱田キャプテンは、ドイツの指導書『フスバル(FUSSBLL』にめぐり合う。
 26年からドイツ・サッカー協会の主任コーチであったオットー・ネルツによるこのドイツ・サッカーのテキストは、全8冊からなるシリーズで、各冊50ページ。「戦術」「技術1」「技術2」「トレーニング」そしてポジションプレーとして「フォワード」「ハーフバック」「フルバック」「ゴールキーパー」からなっている。


辞書と原書で日夜格闘

 濱田キャプテンは、このネルツの著書に飛びついた。学習と練習以外は、昼も夜もドイツ語と格闘し、登校するときにも原書と辞書を離さなかった。私自身も多少の経験はあるが、翻訳というのは相手の言葉を理解しつつ、日本語に変える作業であっても、単に言葉が通じればいいというものでもない。人生経験の少ない学生の語学力のうえに、今のようにテレビでサッカーのあらゆる場面を目で見ることのできなかった時代である。
 膨大な労力が必要だったろうが、それだけに一言一句をかみしめ、自分のものにする労作は、自らのサッカー頭脳の素晴らしい訓練になったはずである。
「その献身的な努力によってネルツは短時間のうちに完訳された。そこには日本で誰も手をつけていないサッカーの視野が目前はるかに横たわっていた。
 根気のよい研究の結果、彼の視界は開け、頭脳は練り上げられたサッカーの理論的骨格が構成されていった。それが濱田の最大の武器となった。彼は名実ともに慶応ソッカーのリーダーとなったばかりでなく、日本サッカー界屈指の理論的指導者(批評家)にまで飛躍をとげた。驚くべき速度と質の変化である」
 と松丸貞一は50年史に記している。
「そして、ネルツは慶応のバイブルとなる。原稿用紙の升目いっぱいに四角ばった文字で埋められた彼の原稿は回覧され、熟読され、筆写された。喫茶店や合宿でマッチ棒や碁石を並べ、戦術論が戦わされた」
「ネルツの体系立てた理論には英書にない緻密なドイツ人らしい理論構成があり、強い説得力と新鮮な魅力を伴っていた。
 平素からの疑問点がズバリと解明されている箇所にぶつかると、目からウロコが落ちてゆくような快感をおぼえた」


戦前の日本サッカー最盛期をつくる

 理論を理解しても、頭脳だけでサッカーの試合に勝てるわけはない。技術を身につけ、戦術を実行するためには、濱田キャプテンの在任2年では短すぎた。慶応が大学リーグに勝ち、全国のトップに立つのは1932年(昭和7年)、そして、これを足場に松丸貞一監督の下に37年から40年までの“無敵”の王者、慶応が生まれたのだった。
 36年のベルリン・オリンピックで、早大を主力とした日本代表が輝かしい実績をつくったあと、慶応の台頭によって、日本サッカーはトップチームのレベルアップと、代表となる選手の層の厚さで、かつてない豊かな時期を迎えた。日本陸軍が起こした無謀な大戦争によって、短い豊穣のときはあっという間に奪われ、再興には長い時間を必要としたが……。
 慶応を卒業してから、その理論と頭脳を買われ、若くして日本サッカー協会(JFA)の理事となった濱田は、JFAの機関誌やサッカー評論誌に優れた選評や海外文献の紹介などを寄稿した。前述の辻安蔵はこうも記している。
「濱田諭吉さんは、一言で言えば吉田松陰のような人であろう。自分のプレーは一流でなかったが、教育者として天才であった。純粋な精神の持ち主で、人をひきつける魅力があった。慶応ソッカー部が、この先輩を持ったことは幸運であった。そして戦争で、この人を失ったことはソッカー部の悲劇であった」
 来年のワールドカップ・ドイツ大会はベルリン・オリンピックから70周年、濱田諭吉の生まれた1906年から100年に当たる。


★SOCCER COLUMN

捕虜とサッカーとドイツ文化
 今年、2005年は「日本におけるドイツ年」で、各地でその行事が行なわれている。
 サッカーでも、日本とドイツの交流の歴史を見直そうということになり、ゲーテインスティテュートの主催で企画が練られている。日本とドイツのサッカーの交流は1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックを思い起こすが、実は第1次世界大戦(1914〜18年)にまでさかのぼることになる。
 日英同盟を結んでいた日本は連合国側となって、ドイツが中国から租借して軍港としていた山東半島の青島を攻撃し、14年11月7日に占領、ドイツ将兵捕虜、約4500人を日本各地の収容所に入れた。太平洋戦争では捕虜虐待などがあったが、これは陸軍が新しく「戦陣訓」を発行し、それに“捕虜となってはいけない”という思想を植え付け、捕虜は恥ずかしいものとしたからである。日露戦争や第1次大戦当時は、日本陸軍も国際法規を守ることに懸命で、捕虜の扱いも国際法の沿ったもの。そうしたなかで、広島県の似島の収容所にいるドイツ兵たちが、サッカーを楽しむようになり、広島市内の大学や中学校との交流試合が始まり、日本側がドイツ人から技術や戦術を学ぶことが多かった。広島のサッカーのレベルアップに、この捕虜収容所との交流が大きな力となった。ついでながら、徳島の板東収容所で捕虜たちが歌ったのが、日本でのベートーベン「交響曲第九番合唱」の始まり。似島ではカール・ユーハイム(ユーハイムの創始者)がクリスマスにドイツケーキ、バウムクーヘンを焼いたという話が残っている。いずれも90年ばかり前のことである。

やっぱりと 英国ほめる ネルツさん
 イングランドからドイツにサッカーが伝わったのは1870年代で、最初のクラブは港町、ハンブルグに生まれた。1900年(明治33年)にはライプチヒにクラブ連盟がつくられ、ドイツ全土へ広まってゆく。もちろん、イングランドへ出かけるチームもあり、そこで力の開きの大きいことを知るのだが、オットー・ネルツという熱烈なサッカー研究者の出現によって、ドイツのサッカーは急速に進歩する。
 1892年生まれのネルツは、マンハイムでプレーし、ベルリン・オリンピック連盟のコーチやボルシア・ベルリンのコーチを経て、26年(昭和元年)からドイツ・サッカー協会の主任コーチとなる。イングランドへ何度も渡り、技術と戦術トレーニングの方法を学び、自らの工夫を取り入れて、ドイツに最初のトレーニング・システムを導入した。自らもドイツの高校連盟のスポーツトレーニング研究所所長として、その指導法の普及を図った。こうした指導法の組織的な浸透は、代表のレベルアップにつながり、在任中の代表の成績は42勝10分け18敗となり、34年のワールドカップでは3位に入賞した。大戦で彼の計画は中断したが、ゼップ・ヘルバーガーに受け継がれ、ドイツはサッカー大国への道を進むことになった。
 36年ベルリン・オリンピックのときに、ネルツとアム・ツオのエデンホテルで食事をともにした田辺五兵衛はドイツ式トレーニングを考案しながら、まだ本家、イングランドの経験を高く評価するネルツの心情を川柳に読んだ。
「やっぱりと 英国ほめる ネルツさん」


(月刊グラン2005年10月号 No.139)

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