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日本代表を世界基準に向けさせた初の外国人監督 ハンス・オフト(上)

就任5ヶ月で初タイトル

 Jリーグが今年の9月10日の第23節で、1993年のスタート以来の観客総数が5千万人を超えた――と発表した。FAXで送られてきた各年度の入場者数を見ながら、あらためて13年前の開幕のころを思い出した。
「地域密着」「下部からトップまで一貫した」といったJの理念がメディアの人々に歓迎され、テレビ、新聞のマスメディアがこぞってサッカーのプロ化を大きく取り上げてくれたことが、人気を高め、現在の成功の第一歩となった。しかし、それまでの20年間、「出ると負け」の日本代表がアジアで初のタイトル奪取や、ワールドカップのアジア1次予選を突破するなど、J開幕直前に国際舞台で活躍したことも人気増大に繋がった。
 その日本代表の監督がハンス・オフト。カズ(三浦知良)、ラモス瑠偉、柱谷哲二たちを魅力あるチームにまとめ、“ドーハの悲劇”によって、あと一歩およばなかったが、夢でしかなかったワールドカップを日本サッカーの身近なものにした。

 オフトが日本代表の監督に就任したのは92年3月だった。
 すでにJの発足を控えて、選手のプロ化は進んでいた。日本代表も当然、プロフェッショナルのチームとなっていた。ただし、気化したラモス瑠偉やブラジルから帰国したカズを加えた日本代表も90年秋のアジア大会では準々決勝で敗退、91年7月の韓国との定期戦も0−1で敗れていた。
 プロの選手の日本代表には、これまでのような日本人監督よりも、外国人のほうがいい――と考えた日本サッカー協会(JFA)の川淵三郎技術委員長(当時)は、人選の末、オランダのFCユトレヒトのゼネラルマネジャーをしていたオフトを招くことにした。すでにオフトは、82年にヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)で指導したことがあり、また87、88年にはマツダ(現・サンフレッチェ広島)でも監督を務めていた。
 日本についての知識のあるオフトは就任して5ヶ月後に、北京でのダイナスティカップの優勝という大きな成果を上げた。韓国、北朝鮮、日本、そして開催国の中国が参加したこの大会は、ちょうど今の東アジア大会に似ている。このときの日本代表はGKが松永成立、DFの中央部に井原正巳と柱谷哲二、サイドに堀池巧、都波敏史あるいは勝矢寿延、MFに森保一、吉田光範、ラモス瑠偉、北沢豪、FWに高木琢也、三浦知良、福田正博、中山雅史たちがいた。
「自分には、当初からチームのイメージはあったが、それを実現するためには、それぞれの選手を配置して初めてできるものだ。自分自身で選手を選び、各プレーヤーの個性と技術をどのように生かすかを考えつつチームづくりを行なった。5月のキリンカップが初戦だったが、このころはまだ見通しが立っていなかった。7月のオランダでの合宿を経て、神戸と東京・国立でユベントスと戦い(2−2、1−1)その5日後にダイナスティカップが始まった。幸いなことに優勝という結果になった」とは、後に私のインタビューに答えた彼の言葉だ。
 一のうちは、自由にプレーしたいというラモス瑠偉と、ピッチ上でも外でも規律を重んじるオフトとの間に摩擦はあったが、ラモスも監督のやり方を理解するようになった。


役割とコンパクト

 そして、北京での勝利から2ヶ月後、サンフレッチェ広島で開かれたアジアカップで、オフトの日本代表は1次リーグをUAE(0−0)北朝鮮(1−1)と引き分け、イラン(1−0)に勝って準決勝に進み、中国を3−2で破り、決勝でサウジアラビアを1−0で下してアジアのナンバーワンとなった。
 このころの記者会見は、オフトのサッカー講義といった雰囲気があり、記者の質問に対して丁寧に答え、サッカーへの理解を深めようという彼の気持ちが表れていた。
 常に出てくる言葉は“コンパクト”。DFラインを押し上げ、中盤をコンパクトにして、そこでボールを奪い、攻めに結びつける。それは74年にオフトの母国、オランダ代表チームがワールドカップのひのき舞台で世界に示した、トータルフットボールの中の一つだった。
 日本のサッカー界でも指導者たちは74年大会で、現代に通じるこのオランダ流をすでに見てはいたが、それを日本のものにするにはいたっていなかった。メキシコ・オリンピックでクラマーの教えを実行して銅メダルにたどり着いた日本だが、世界のトータルフットボールへの移行を知りながら、その底にある個人の能力アップが遅れていたため、諸外国の事情を頭で理解しても、それをわがものにする力はなかった。
 オフサイドとはこの点、現代サッカーに不可欠な体力の強化についても、プレーヤーを督励し、また選手個々の能力も自ら認知し、仲間とどのように組み合わせていくかを指導した。
 ドリブルがうまく、サイドでプレーするのを好んだカズのシュート能力を生かすため、FWとしてゴールすることを期待し、ストライカー・カズに変身させた。長身のストライカー高木がヘディングを武器に成長し、ボールの受け方も上達したのは、チームにも本人にも大きなプラスとなった。
「アイコンタクト」も、このころによく使われた言葉。「守備的ミッドフィルダー」もそうだった。長くサッカーにかかわった者にとっては、昔のポジションでいうHB(ハーフバック)のことで目新しくもないが、いつのころからか、トータルフットボールからオールラウンドという言葉が流行して、ポジションプレーという概念の薄くなっていた90年代初めの日本では、ミッドフィルダーに“守備的”とつけ、ポジションの役割をハッキリさせた言い方は新鮮だったらしい。
 このポジションはまた、森保という適役がいたことも幸いした。
 トータルフットボールの世の中でも、選手それぞれには個性に応じた役割がある――こと(きわめて当然だが)を代表の試合を通じ、日本の指導者、多くのサッカー人に知らせたことも、この時期のオフトの大きな功績だった。


J開幕を彩る代表の勝利

 オフトが代表監督を引き受けてから、94年のワールドカップ・アメリカ大会のアジア予選までに1年の日時しかなかった。自らの仕事を「日本代表をワールドカップに連れていくこと」と言明しながら、はじめは見当もつかなかったのが、アジアカップ優勝のころには、チームの成長に手ごたえを感じていたに違いない。
 プロとして新しい人生を踏み出す選手にとっても、93年5月にスタートするプロのJリーグにとっても、このころは未知への期待に胸を躍らせる、いわば夜明けの楽しさだった。さいわいなことにJの開幕前の期間で、日本サッカーリーグ(JSL)の試合はなく、代表の練習の時間も取れた。
 オフトとチームは93年2月に3試合をし、3月にハンガリーとアメリカの各代表を迎えてのキリンカップを戦い、4月8日からのアジア1次予選に向かった。
 タイ、バングラデシュ、スリランカ、UAEを相手にした日本シリーズ4試合で4戦全勝。4月28日からのUAEシリーズでは最後のUAE戦で引き分け(1−1)ただけで、3勝1分けでこのグループのトップとして、10月の最終予選へ進むことになった。
 この予選の勝利は5月のJリーグ開幕への大きなバックアップとなった。秋にはとんでもない悲劇が待っているとは、誰も予想できなかった。


ハンス・オフト 略歴

1947年 6月27日、オランダに生まれる。
1982年 オランダFAの指導センター、ゼイストでコーチ育成に当たっていたオフトは、JSL2部のヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)から臨時コーチに招かれる。当時35歳の彼は、杉山隆一監督を助けて2部優勝、1部復帰への道を開いた。
1984〜88年 84年からマツダ(現・サンフレッチェ広島)のコーチに、87年には監督となり、プロ化に備えたチーム強化に働く。
1992年 3月、日本代表監督に就任。94年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会への出場を目指す。
     8月、北京での第2回ダイナスティカップで優勝。日本代表の海外での大会で初の優勝となった。
     10月、広島で開催された第10回アジアカップで初優勝。Jリーグ開幕を翌年に控えたサッカー界の人気上昇の大きな力となる。
1993年 4〜5月、ワールドカップ・アジア1次予選を7勝1分け、グループトップで通過。
     10月28日、カタールの首都ドーハで行なわれたアジア最終予選・最終日のイラク戦で引き分け、ほとんど手中にしていた本大会出場権を失った(ドーハの悲劇)。
1994〜96年 ジュビロ磐田の監督を務める。
1998年 京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)監督。
2002〜03年 浦和レッドダイヤモンズ監督。日本での監督業の後、現在はスペインに住む。


★SOCCER COLUMN

日本、オランダのスポーツの縁
 ハンス・オフトの生まれ育ったオランダの正式国名は「Koninkrijk der Nederlanden」(ネーデルランド王国)という。「Neder」は「低い」、「Landen」は「土地」でつまり低い土地ということ。ライン河、マース河、スヘルデ河の三つの大河と北海に囲まれた低湿地帯に住み着いた人たちが古くから水と戦い、干拓し、堤防を設けて土地を守り、海へ広げてきた。オランダというのは、この国がスペインから独立したとき中心になった「Holland」(ホラント)州に由来している。
 人口約1600万人、日本の九州とほぼ同じ大きさの小さな国だが、水と戦い続けた着想と努力は、海外との交易を盛んにし、農業とともに豊かな国をつくってきた。
 北海を隔ててブリテン島と向き合うオランダにサッカーが伝わったのは1865年、ロンドンでFA(フットボール・アソシエーション)が設立されてからわずか2年後だった。
 1989年にオランダ・サッカー協会が誕生し、全国選手権とカップ戦は19世紀末に始まっている。
 日本とは徳川幕府の鎖国記にあっても交易を許され、長崎の出島にオランダ商館が置かれて、当時の日本にとっての唯一の海外への窓となっていた。スポーツでも1928年のアムステルダム・オリンピックで日本が水泳・平泳ぎで鶴田義行、陸上・三段跳びで織田幹雄がそれぞれ初の金メダルを獲得したことがある。
 日本サッカーがアマチュアからプロ化に向かう“第2の開国期”に、オランダ人が代表監督になったのも、また、不思議な縁だといえる。


オフト・ジャパンの成績(Aマッチのみ)

・キリンカップ
 92年5月31日 0−1 アルゼンチン(国立)
     6月7日 0−1 ウェールズ(松山)

・ダイナスティカップ
 92年8月22日 0−0 韓国(北京)
     8月24日 2−0 中国( 〃 )
     8月26日 4−1 北朝鮮( 〃 )
     8月29日 2−2(PK4−2)( 〃 )

・アジアカップ
 92年10月30日 0−0 UAE(尾道)
     11月1日 1−1 北朝鮮(広島)
     11月3日 1−0 イラン( 〃 )
     11月6日 3−2 中国( 〃 )
     11月8日 サウジアラビア( 〃 )

・キリンカップ
 93年3月7日 0−1 ハンガリー(福岡)
     3月14日 3−1 アメリカ(国立)

・ワールドカップ1次予選
 93年4月8日 1−0 タイ(神戸)
     4月11日 8−0 バングラデシュ(国立)
     4月15日 5−0 スリランカ( 〃 )
     4月18日 2−0 UAE( 〃 )
     4月28日 1−0 タイ(ドバイ)
     4月30日 4−1 バングラデシュ( 〃 )
     5月5日 6−0 スリランカ( 〃 )
     5月7日 1−1 UAE(アルアイン)

・アジア・アフリカ選手権
 93年10月4日 1−0 コートジボワール(国立)

・ワールドカップ最終予選
 93年10月15日 0−0 サウジアラビア(ドーハ)
     10月18日 1−2 イラン( 〃 )
     10月21日 3−0 北朝鮮( 〃 )
     10月25日 1−0 韓国( 〃 )
     10月28日 2−2 イラク( 〃 )


(月刊グラン2005年11月号 No.140)

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