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クラマーと日本とドイツのサッカー

 日本のサッカーが「いま」のかたちになるまでに、そのときどきに影響を与えた人を紹介するこの連載だが、今回は番外編として、今年の「日本におけるドイツ年」の催しの一つ、“日独サッカー交流展”のシンポジウムに来日した80歳の大コーチ、デットマール・クラマーを中心に、日本とドイツのサッカーのかかわりを眺め、あらためていまの日本がドイツから何を学ぶかを見ることにした。
 来年のワールドカップ・ドイツ大会に日本代表も出場するが、奇しくも2006年は日本がベルリン・オリンピックの逆転劇を演じてから70年目の節目に当たる。


日独サッカー交流展で

▽11月11日 来日
▽11月12日 東京・味の素スタジアムで、東京ヴェルディ対セレッソ大阪戦を観戦後、シンポジウム
▽11月13日 東京・新宿パークタワー・ホールでのシンポジウム
▽11月14日 神戸市の神戸東急インでのシンポジウム
▽11月16日 東京・国立競技場で日本対アンゴラ戦を観戦
▽11月17日 帰国

 11日に来日したクラマーは次の日から2試合の観戦と三つのシンポジウム、そして3件のインタビューをこなして、17日に帰国した。
 彼については、この連載の5人目に登場、2001年3月号から6月号までの4回にわたって記しているので重複を避けたいが、まずは80歳を超えた彼が、いまなお元気で、前述した仕事を12時間に及ぶフライトの後にやり遂げ、また12時間のフライトを苦にせず、ドイツへ帰っていったことを、日本全国で彼から直接指導を受けた人たちにお知らせしておきたい。
 もともと、この催しは東京のドイツ文化センター(ゲーテ・インスティトゥート)のスポーツ担当が、ドイツ年にちなむ企画を考えているという話を、友人でサッカーフリークの音楽家、佐々木秀人氏が伝えてきたので、クラマーなら招待できる――ということになり、実現したもの。佐々木氏はドイツに長く住んで、映画音楽も手がけ、そちらの方でも顔が広いらしい。
 後援に日本サッカー協会(JFA)やJリーグに入ってもらい、キリンビール、ANA、富士写真フィルムの協賛を得て、新宿パークタワー・アトリウム(11月10〜29日)大阪・梅田スカイビル(12月15〜25日)の写真展示を含めての催しとなった。


サインを求めて若い人の行列

 クラマーという名が一つの看板だったから、参加者は年配の人が多いと思ったら、若い顔も少なくなかった。
 そういえば近頃、月刊グランを見た、あるいはあの連載記事をインターネットで見たという人たちからの電話が時々ある。そのほとんどが30歳以下である。ある金曜日には、三つのテレビ局から企画のことで問合せがあった。いずれも若いプロデューサーだった。
 団塊の世代たちは、日教組の歴史否定教育の絶頂期に育ち、日本の古いものへの興味もわきにくいようだが、その子どもの世代は古いものに興味を示すということのようだ。そして、サッカーの歴史についても、聞くあてが少ないところから、我が家の電話が鳴る――という手順らしい。
 その若い参加者の多くは、クラマーの強い口調のスピーチ、よりよいサッカーへの情熱に感銘を受けたという。シンポジウムの後のレセプションにも参加し、クラマーのサインをもらい、握手し、共にカメラに収まるという光景が続いた。クラマーは40年前に日本の少年たち一人一人の要請にこたえてサインしたのと同じ調子で応じ、ついには彼の前に長い列ができてしまったほどだった。
 2000年に中国足球学校で指導していたころ、2002年のワールドカップのとき、そして今回と少しずつ年を重ねている彼のいまのテーマは、サッカーはゴールを奪い、ゴールを守るスポーツであること。練習の目的もまた、ゴールにあることを強調するようになっている。


捕虜チームとベルリンと学生大会と

 ベートーベンの交響曲第9番の合唱は、日本で全国的な恒例行事となっているが、その起こりは第1次世界大戦で、日本の捕虜となった中国・山東省、青島のドイツ軍港にいた兵士たちが歌ったもの。徳島の板東捕虜収容所での話だが、この物語が映画に取り上げられることになり、収容所のセットがすでに徳島県に作られているとか。この板東収容所から広島の似島に収容所に移された人たちがサッカーチームをつくって、広島師範と試合をしたのが1919年(大正8年)1月だった。捕虜のテクニックの高いのに驚いた広島のサッカー人が収容所まで出かけて習うようになり、それが広島のレベルアップにつながった。関西にも及んだというから、ひいては日本代表のショートパスにも捕虜の影響があったかもしれない。
 日本のトップチームがドイツに出かけたのは1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックに参加するためだった。このとき、随行員(アタッシェ)だった田辺五兵衛(1908〜1972年)はドイツサッカー協会のヘッドコーチ、オットー・ネルツに会っている。ネルツ(1892〜1946年)のアシスタントがヘルバーガー(1897〜1977年)で、戦後のドイツサッカーの復興の先覚者だった。クラマーは彼の最も信頼厚い愛弟子だった。
 このネルツの指導書『フスバル(フットボール)』を訳したのが、1927年の慶応ソッカー部主将の浜田諭吉(1906〜1944年)であったことは、この連載(2005年10月号)でも紹介している。
 ベルリンの奇跡の後、太平洋戦争の開戦までのしばらくは日本サッカーの戦前の黄金期で、ドイツ流の戦術論、技術論も華やかだった。
 1945年の終戦後、経済困難と用具不足で日本のサッカーは立ち遅れる。
 それでも、1953年にJFAが学生チームを西ドイツ・ドルトムントでの国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)に参加させたのは大英断だった。大会参加とともに、サッカーの本場、ヨーロッパの空気を感じさせるための50日に及ぶ大旅行は長沼健、岡野俊一郎、平木隆三たちの心にヨーロッパのスポーツマインドを刻み込み、彼らを生涯、この道に向かわせる力となった。
 それから7年、東京オリンピックの代表強化のために、クラマーを迎えたのが1960年のことだった。
 彼の働きぶりと実績はいまさら述べるまでもない。彼と同世代の私が81歳になってつくづく思うことは、この人と出会ったことが、日本サッカーにとっての大きな幸福だったということである。彼に会った日から45年たったいま、あらためて強く思うのである。
 75歳のとき、中国足球学校での指導ぶりを現地の新聞に“鉄人”と報道されたが、80歳の彼はいまも講演や集会への出席に結構忙しい。なにしろ、ブンデスリーガ随一の強豪で、ビッグクラブ、しかも経営状態のいいバイエルン・ミュンヘンの元監督だ。クラブのトップであり、ワールドカップ組織委員長のベッケンバウアーは彼の教え子の一人。バイエルンの会長、カール・ハインツ・ルンメニゲは、彼の個人指導でワールドクラスのプレーヤーになった。
 そうした教え子たちを見守り、見守られながら、2006年のワールドカップを迎えようとしている。
 ベッケンバウアーたちを語るときは楽しそうだが、大コーチは懐旧にふけるだけではない。なぜベッケンバウアーのようなプレーヤーが出ないか、どうすればもう一度、ドイツ・サッカーを高いレベルに引き上げられるか――という話になると、時間を忘れてしまうし、ストライカーの練習法となるとゲルト・ミュラーの例を引きながら、話は尽きることがない。
 このコーチのなかのコーチ、コーチの天才によれば、何事も指導者の意欲と努力が大切という。
 釜本邦茂を語るときも、182センチもある立派な体の選手が、その体格を生かし、技術を磨き、メキシコ・オリンピックの得点王となって日本に銅メダルをもたらしたが、それには彼自身と周囲がどれほど努力したか、クラマー自身も、そして長沼監督も、岡野コーチも、どのようにして釜本の進歩を図ったかを、もう一度、私たちに思い出させてくれる。
 彼を招いて若い人に話を聞いてもらい、ずいぶん喜ばれたが、もっとこの人に語らせ、日本の指導者たちに自らの力に希望を持たせたい。私はいま、そう思っている。そして、彼の元気なうちに、彼の教え子たちが健在のうちに、世界で最も健全経営のブンデスリーガの実態を学びにゆきたいと思うのだった。


★SOCCER COLUMN

クラマーの好きな言葉
「物を見るのは精神であり
 物を聞くのは精神である
 眼そのものは盲目であり
 耳それ自体は聞こえない」

 クラマーの好きな言葉で、彼が主任コーチであったデュイスブルグのスポーツシューレ(スポーツセンター)の玄関の壁に掲げてある。1960年(昭和35年)にDFB(ドイツサッカー協会)からクラマーを紹介され、ここを訪れたJFAの野津譲会長が、この額を見て、この人に日本代表の強化を託そうと心に決めたという。
 日本でもこの言葉は、会社の経営者の間などでも評判らしく、この写真は神戸のシンポジウムのとき、ユーハイムの河本武社長が、本人に書いてほしいと頼んだもの。

80歳大コーチの日課。早寝、早起き、トレーニング
 傘寿のコーチ、クラマーの日課を尋ねたら、ノートに自分で書いてくれた。それによると、次のようになっている。
 もともと規則正しい生活をする人だったから、この日課もうなずける。
 朝は早起き――そのために夜は早く寝るという。トレーニングはゆっくり、ひざを痛めているので時間をかける。
 朝食はお茶とバナナだけ、日本滞在中でも時間外に食べることはなかった。
 朝食後は広い庭の手入れ。
 ドイツでは昼食に温かい料理を出すところが多い。魚やポテト、パン、近頃は肉はほとんど取らない。
 午後は人に会ったりする、いわば仕事の時間。
 夕食はスナック程度。
 土曜日の午後にはテレビのサッカー観戦も入るし、ときには試合を見にゆくこともある。

▽5:30 起床
▽6:00 トレーニングを約60分。90分のときも
▽8:00 シャワー
▽8:30 朝食。ティーとバナナ1本
▽9:00 ガーデニング。ときには雪かきも
▽11:00 シャワー
▽12:00 昼食
▽午後  電話、執筆、手紙、読書、人との会合
▽18:00 テレビのスポーツ・ショー、ニュースを見る
▽20:30 就寝の準備
▽21:00〜21:30 就寝


(月刊グラン2006年1月号 No.142)

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