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日本が生んだ国際クラスのゲームメーカー 八重樫茂生(上)

50年前のメルボルン五輪

 八重樫茂生のことを古くからの仲間は「パーチョン」と呼び、後輩たちは「やえ(八重)さん」と言う。パーチョンの由来は、1957年(昭和32年)の日本代表の中国遠征のときに、八重樫の名前の中国語読みから取ったらしい。同じチームにいた平木隆三(グランパス初代監督)も、やはり中国語の発音が呼び名となり、今も「ペラ」あるいは「ペラさん」と親しまれている。
 八重樫のプレーに強い印象を受けたのは、50年前の56年6月に行なわれたメルボルン・オリンピック・アジア予選の対韓国戦2試合だった。
 日本はそれまでの戦前、戦中派が中心だった代表チームの大幅な若返りを図っていた。八重樫はそのとき23歳。早稲田代に在学中、盛岡一高時代から目をかけられた工藤孝一さん(故人、1909〜71年)の厳しい指導の下に腕を上げていった。
 6月3日の第1戦は日本が2−0で勝ち、同10日の第2戦は韓国が2−0、代表権を決めるための15分ハーフの延長も0−0で、抽選の結果、日本のメルボルン行きが決まった。日韓の当時のチーム力からいけば、韓国の方が上だったが、第1戦はベテラン鴇田正憲というウイングのキープ力と八重樫の大きな動きによって2ゴールを挙げ、相手の猛攻を平木隆三たちDFとGK古川好男の攻守で防ぎきった。
 第2戦は開始後すぐに内野正雄が足を痛めて10人(当時は交代なし)の劣勢となって敗れた。しかし、失点を2で食い止めたために、抽選の結果、代表権を得て、36年以来、20年ぶりのオリンピック出場を果たした。
 一人少ない第2戦では、八重樫の動きの量はさらに大きく目立った。その動きは延長に入っても衰えず、延長後半に彼の持ち上がりからゴールネットを揺るがす幻のゴール(オフサイド)もあったほど――。
 すでに54年にワールドカップ・スイス大会に出場して世界の洗礼を受け、経験に勝る韓国代表をともかくも1勝1敗に抑えて、日本は11月のメルボルン・五輪に出場したのだが、本大会では若い勢いを発揮できずに1回戦で敗退してしまった。八重樫自身も、ただ夢中で試合をしただけ――と言っていた。しかし、このときユーゴやソ連などの高い技術のチームに接したことが大きなプラスになった。


恩師・工藤孝一さんの読み

 もともと盛岡一高のときから長い距離を走るのは苦にしなかった。校内のマラソンでもいつもトップだった。強い体を生かしたドリブルも得意だった。そうした彼の素質に目をつけたのが、郷里に帰っていた工藤孝一さん――彼らの世代を熱心に指導して、全国高校サッカー選手権大会の東北予選を突破させ、西宮での全国大会に進ませた。八重樫が2年生のときだった。1回戦で敗退したが、この高校生チームを工藤は、天皇杯といった大人の大会に出場させる。工藤の狙いは東北の予選に勝って、1951年(昭和26年)に仙台で開催される本大会で、東京や関西の強チームと戦い、レベルの高い選手を見せて刺激を与えることだった。仙台で初めて高い水準のプレーを見た八重樫は、大学でサッカーをみっちりやってみたいと思った。
 その大学を卒業して、古河電工へ入ったのも当時、長沼健(現・日本サッカー協会最高顧問)を中心に、強力なチームをつくろうとしていたからだった。長い間、ライバルだったペラこと平木隆三も同じチームでプレーすることになった。4年後に“東京”を控えた日本にとって、60年のローマ・オリンピックは出場しなくてはならない大きな目標だったが、八重樫はけがのために59年12月の予選、対韓国には出場できなかった。八重樫なしでは韓国の壁は厚く、0−2、1−0のスコアで1勝1敗、得失点差で敗れた。1勝したことで世論は沸いたが、冷静に見ればあと1ゴールの差は、簡単に埋まるものではなかった。


第2の恩師・クラマーの期待

 長い間の低迷を打破するために日本サッカー協会は外国人コーチを招くことにし、ドイツ協会のデットマール・クラマーに日本代表の強化を託した。
 八重樫たち代表は1960年(昭和35年)8月、西ドイツのデュイスブルクのスポーツシューレで、彼の指導を受けた。
 27歳の八重樫にとって、クラマーの語る言葉、模範動作の一つ一つが新鮮で強い刺激となった。
 クラマーもまた、しっかりした体と理解力を持ち、考える力を備えた八重樫がチームの中心になるだろうと考え、チーム全般のレベルアップのためにも、この選手の成長に強い期待を寄せた。
 61年の2度目の来日のとき、クラマーが私に「キミの兄の賀川太郎に現役復帰するよう、キミからすすめてほしい」と言ったのは、周囲によい手本となる年長プレーヤーがいない八重樫の上達を早めるために、技術と経験を持つ私の兄の現役復帰を望んでのことだった。
 私とのこの会話のあと、8月の日本代表のデュイスブルクでの合宿練習のときに、西ドイツ代表のかつてのキャプテン、随一のボールプレーヤーでパスの名手といわれたフリッツ・ヴァルターが現れ、その長短のパスを披露したと聞いた。チームの中軸、八重樫にいい手本を見せて、刺激を与えようとするクラマーがフリッツに頼んできてもらったのである。


フリッツ・ヴァルターのパスの極意

 今度の2006年(平成18年)ワールドカップの日本の第1戦はカイザースラウテルンで、この名選手の名を冠したフリッツ・ヴァルター・スタジアムが会場であるのも不思議な縁だが――。
 それはともかく、このときの名手のパスのうまさを、松本育夫や桑田隆幸といったFW、特に飛び出し型のプレーヤーたちは走ったところへぴたりと合うパスに喜び驚いたが、八重樫は「人間対ボールの関係に、“わび”あるいは“さび”というのか、“こく”とでもいうのか――言葉では表現できないものがある。ヴァルターはそういうものがいっぱい詰まっているボールをパスしてくれるのだ」と感じたという。
 1954年(昭和29年)のワールドカップ優勝チームの主将、フリッツ・ヴァルターによって、パスの“極意”の感銘を受けた八重樫は、クラマーの期待通り成長していく。
 64年の東京オリンピックは彼にとって、年齢的にも体力的にも頂点の時期にあり、数多くの外国チームとの対戦で新しい経験を積み、一歩一歩ステップアップしてゆく、気持ちのうえでも最も充実した時期であった。
 彼よりも若く、しかも優れた資質と少なくとも彼よりは恵まれた環境で育った杉山隆一や宮本輝紀、釜本邦茂といった若い世代に対しても、練習で厳しく接することができたのも、自分自身の成長への自信であったといえる。


八重樫茂生(やえがし・しげお)略歴

1933年(昭和8年)3月24日、朝鮮半島(現・韓国)大田(テジョン)に生まれる。
1945年(昭和20年)8月、大田中学1年のとき、太平洋戦争が終結。一家は岩手県和賀郡東和町(現・花巻市)に引き揚げ、盛岡中学(盛岡一高)に転校し、ここでサッカーに出合う。
1951年(昭和26年)1月、盛岡一高が第29回全国高校選手権大会に東北代表として出場、八重樫はFWでプレー、1回戦で高知農高に敗れた。
            5月、第31回天皇杯(仙台・宮城野サッカー場)に盛岡サッカークラブのメンバーとして参加、1回戦で敗退。
1952年(昭和27年)3月、盛岡一高を卒業、中央大学に進む。
1954年(昭和29年)早大に転校し、関東大学リーグ優勝3回、東西学生王座決定戦優勝2回、大学選手権優勝1回。早大の学生サッカー界覇者の原動力となる。
1956年(昭和31年)6月、メルボルン・オリンピック・アジア予選で韓国を抑えて本大会に出場。
            11月、本大会1回戦でオーストラリアに0−2で敗退。
1958年(昭和33年)3月、早大を卒業、古河電工に入社。同社サッカー部の黄金時代を築く。
            5月、第3回アジア大会(東京)の日本代表に(2戦2敗)。
1960年(昭和35年)8月、西ドイツのデュイスブルクのスポーツシューレでデットマール・クラマーに会い、初めて指導を受ける。
1962年(昭和37年)8月、第4回アジア大会(ジャカルタ)の日本代表に(1勝2敗)。
1964年(昭和39年)10月、東京オリンピック日本代表、1次リーグでアルゼンチンに3−2の逆転勝ち、準々決勝でチェコに0−4で敗れる。
1965年(昭和40年)4月、日本サッカーリーグがスタート。32歳の八重樫は古河電工でベテランの味のあるプレーを見せてチームを引っ張る。
1966年(昭和41年)12月、第5回アジア大会(バンコク)の日本代表に(3位、銅メダル)
1967年(昭和42年)9〜10月、メキシコ・オリンピック・アジア予選第1地区で優勝。
1968年(昭和43年)10月、メキシコ・オリンピックで3位、銅メダル。フェアプレー賞も獲得した。
1969年(昭和44年)7〜10月、第1回FIFAコーチング・スクールで、主任のクラマー・コーチを助ける補助コーチとして働く。
1977年(昭和52年)富士通サッカー部監督となり、日本サッカーリーグでチームの基礎を築き、川崎フロンターレとしてプロ化への道を開く。


★SOCCER COLUMN

オリンピック出場12年は世界に7人だけ
 八重樫茂生は、1956年(昭和31年)のメルボルン大会に初参加して以来、64年の東京、68年のメキシコ大会とオリンピック3大会に出場している。
 08年(明治41年)にサッカーがオリンピックの競技として行なわれるようになってから72年まで13回の大会が開かれているが、選手として3回参加したのは18人だけ。国別ではイタリア3、フランス、ブルガリア、英国各2と、スペイン、デンマーク、オランダ、エジプト、インド、ハンガリー、スウェーデン、ベルギー、日本の各1となっている。これは76年のモントリオール大会を前にした『FIFAニュース』の76年6月号に掲載されたルーマニア人のフェデリック・モイセス氏の記事による。
 オリンピックがアマチュアの大会であったのが、プロ導入の変化の兆しがあり、また、92年のバルセロナ大会から正式に年齢制限(23歳以下)がつけ加えられるのだが、そうした変化の前に、72年まで13回の大会のさまざまな記録を集めて発表したもの。
 出場回数でなく、オリンピックに出場した年限からいうと、12年間にわたっての本大会参加は、7人だけとなっている。現在では年齢制限があるため、12年にわたっての出場はまずできないだろう。八重樫はオリンピックの出場年数でゆくと、世界のサッカーでは、わずか7人のうちの一人ということになる。


パーチョン、小笠原、今野
 古いサッカー人から見れば、東北は縁遠い地域だったが、そのなかで盛岡中学(盛岡一中、盛岡一高)のフットボールの歴史はずば抜けて古く、1904年(明治37年)の校友会雑誌には「校友が熱心に各地対抗の“蹴球”をした」と記録が残っているという。しかも、「例年どおり」とあるから、すでに何年もあったということになる。
 そうした長い歴史の積み重ねのなかから、工藤孝一という指導者が現れ、その情熱が八重樫茂生たちにつながった。そして今や、東北からはパスの名手、小笠原満男(鹿島アントラーズ)や出色の守備的ミッドフィルダー、今野泰幸(FC東京)たち、最も注目すべきプレーヤーが現れている。小笠原は大船渡高校、今野は東北高校と出身高校は盛岡ではないが、両選手とも、ミッドフィルダーとして動きの幅が広く、シュートが巧みで得点力があり、また得点に絡む選手というところは、八重樫と似ている。
 粘り強さという東北気質を踏襲しているだけでなく、サッカーについての“賢明さ”を備えているところも面白い。


(月刊グラン2006年2月号 No.143)

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