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日本が生んだ国際クラスのゲームメーカー 八重樫茂生(下)

崖の下のボールを拾ってこい

 日本の生んだ偉大なストライカー、釜本邦茂(日本サッカー協会副会長)はいい先輩に恵まれたことがプラスになったとして、こう言っている。「日本代表に入って、東京オリンピックに向かって練習していたころ、八重樫さんに厳しく指導されたのは、ずいぶんためになったと思う」

 1964年(昭和29年)、早大2年生、19歳の釜本が日本代表に入ったとき、パーチョンこと八重樫茂生は31歳だった。メルボルン・オリンピックに23歳で参加した彼にとって、若く、素質に恵まれた後輩は頼もしいと同時に、早くレベルアップしてほしいとの思いでいっぱいだったろう。
 千葉県・検見川での練習では、30メートルくらいのパス練習で釜本からのボールが横にずれると八重樫は取ってくれない。ボールはピッチを抜け、崖の下へ。「自分で取ってこい」。パーチョンの声が飛ぶことがあった。
「しごきではなかった。気持ちの入ったキックで外れたのならともかく、気が入っていないパスを蹴るのはいけない。国内の試合では狙ったところから1メートルくらい離れていてもなんとかなっても、国際試合ではそうはいかない。だから、どんなときでも丁寧に、気を入れたボールを蹴る大切さを身につけてほしかった」と八重樫は言う。


対アルゼンチン、逆転への1点目

 東京オリンピックは自分が一番充実した感じで迎えられた大会――とパーチョンは言う。それまでは得点能力に注目され、FWのポジションにいることが多かったが、4・4・2あるいは4・3・3といった配置の中で、彼の仕事はリンクマン、今でいうミッドフィルダーで攻撃のリーダーとなっていた。
 1964年(昭和39年)10月14日、東京オリンピック・1次リーグD組の日本対アルゼンチン戦は雨の中、駒沢競技場で行なわれた。この試合で日本は前半24分に0−1とリードされたが、後半9分に同点とした。八重樫がドリブルで左へ持ち上がり、左サイドの杉山隆一にスルーパスを送り、杉山がドリブルシュートしたもの。17分にアルゼンチンが日本側のミスを拾って2点目を挙げ、再びリードしたが、日本は36分に2−2とした。今度は釜本が左コーナーへ出てパスを受け、中央へクロスを送ると、右から走りこんだ川淵三郎がヘディングで決めた。このゴールで勢いづいた日本は、1分後に勝ち越しゴールを決める。左からボールを川淵がシュート、GKが防いだりバウンドを小城得達がとらえてネットへ送り込んだ。
 シーソーゲームでの勝利はチーム全員のものだが、前半始めにいいリズムで攻めながら得点できず、1点を失った後半に同点として、反撃の勢いをつけたのが八重樫のパスからであったことを忘れることはできない。


対ガーナ、30メートルの同点ゴール

 残念ながら東京オリンピックでの勝利は対アルゼンチンだけに終わった。Dグループの第2戦の対ガーナ(10月16日)は、スタンドから見ていて勝つチャンスはありながら、日本選手は2−2で追い上げたところで急激に動きが落ちてしまい、3−2で敗れた。杉山は「スタミナの配分に問題があった」と言っていたが、長い間、「開催国として恥ずかしくない成績を」「そのためにはなんとか1勝を」と周囲から叫ばれていたプレッシャーが、初戦の勝利で解け、それが逆にチーム全体から緊張感を取り外してしまったのかもしれない。
 ただしパーチョンは、この試合でも彼らしいプレーを見せた。前半12分に杉山からのパスを受けてシュートし、このリバウンドを杉山が決めて先制。1−1となった後半7分には杉山からのボールをダイレクト・ボレーでシュート、30メートルの距離を正確に飛んだボールは、ゴールのファーサイドのネットに突き刺さった。
 このシュートは当時の仲間の間で、今も語り草になっている見事なものだが、誰もが杉山からのボールを持って出ると思ったときに、ボレーシュートを敢行したところに彼の充実ぶりがうかがえる。
 D組は3チーム(イタリアが欧州予選でのプロ出場問題で棄権)であったため、1勝いっぱいで2位となり、このためC組1位のチェコスロバキアと準々決勝で当たることになった。
 10月18日の駒沢競技場での対戦は、チェコが4−0と完勝した。短いパスをつないで、ゆっくりしたテンポで攻めるチェコに対して、日本も再三、攻め返した。前半の早い時期にあったチャンスを決めていれば、また違った展開になっていたかもしれない(今も同じような反省が試合のたびに出ている)が、攻められ、攻め返す展開は互角のように見えても、技術の差からミスでボールを奪われ、あるいは守りにほころびが現れて、(一方的に押し込まれるよりも)点差が開いてしまった。
 この試合の後で、クラマーは私にこう強調した。「今日の試合のヤエガシを見てくれたか。彼は今のチェコのゲームメーカーであるゲレタ、欧州で高い評価を受けている彼に対抗してひけをとらないプレーをした。4−0で敗れはしたが、このことを忘れないでほしい」――と。一枚上の相手に各パートで勝てず、追い込まれていく若い仲間の中で、八重樫は31歳の意地を見せた。
“東京”の1勝で日本サッカーの環境は一変した。翌年からプロ野球以外でのスポーツ界初の全国リーグ「日本サッカーリーグ(JSL)」がスタートした。神戸から始まった「少年サッカースクール」はあっという間に全国に波及した。JSLが28年後にJリーグとなり、そのJの試合にかつての“サッカー少年”が共鳴したことを考えれば、“東京大会”は4年後の“メキシコ”とともにサッカーという競技が、日本で最も普及しているベースボールの後を追って、今日のような形になるための大きな一歩であった。


傷だらけの体でメキシコの銅

 東京五輪を最後にサッカーをやめようとしたパーチョンの決心は、長沼健監督たちの説得によって、メキシコまで第一線プレーヤーを続けることになる。
 パーチョンの体は、いっぱい古傷を抱えていた。1959年(昭和34年)のマレーシアでのムルデカ大会での足の損傷は選手生命にかかわるほどのものだったが、骨を削り、ボルトを埋めるという大手術と本人の努力で東京まで持ちこたえた。
 日本代表の中で、動きが大きくボールが持て、突破ができる彼は、激しいマーク、悪質ファウルに狙われた。56年のメルボルンでは、対オーストラリアで「見ていてかわいそうなくらい蹴られた」(川本泰三コーチ)。
 私自身も66年12月の第5回アジア大会(バンコク)での1次リーグ、第2戦の対イラクで、右タッチライン際をドリブルする八重樫がイラン選手にトリッピングで倒されるのを見た。スピードに乗ったところを強く払われたため、負傷した彼は大会の後の試合は欠場した。この大会は10日間に7試合という非常識な強行日程のため、日本は3位に終わったが、もし八重樫が出場していれば、この大会で金メダルを取れていただろう。
 それでも彼は67年9月のメキシコ・五輪・アジア第1組の予選では第2戦から最終の南ベトナム戦までの4試合に出場して健在ぶりを見せた。68年3月のメキシコ・オーストラリア遠征や、5月のアーセナル戦、夏のソ連・欧州遠征の長い強化日程をこなして、チームの戦力アップに貢献した。
 68年10月14日、メキシコ大会の第1戦・対ナイジェリア、誰もが不安と期待を抱えながらの初戦は、釜本のハットトリックで3−1の快勝となったが、その先制ゴールは前方に飛び出した八重樫が、杉山からのボールを受けて、中央へ送ったクロスからだった。ナイジェリアはオショデのゴールで同点として後半に入ったが、日本は28分にリードを奪う。チャンスは八重樫のFKからだった。シュートを狙うことも、釜本へ直接パスを送ることもできる位置から八重樫はDFラインの裏にスルーパスを出し、杉山が走りこんで中央へ返し、釜本が決めた。
 相手GKのミスキックを拾った釜本がロングシュートを決めて、2点差をつけての勝利で、この後の戦い方が一気に楽になった。
 八重樫はこの試合で足首を痛めて戦列を離れたが、「丁寧にパスを出せ」と後輩たちにやかましかった彼の丁寧で気の入ったパスからの2ゴールで、銅メダルの糸口となっただけでなく、支柱としてチーム結束の中心だった。アマチュア時代にプロのように練習し、長く第一線で活躍したパーチョンは、古河電工でも名棋譜ともいうべき見事なパスワークの伝説を残して、69年に第一線のプレーから退いた。
 2005年5月、JFAは「日本サッカー殿堂」を設けて、功労者を掲額することにした。その第1回に八重樫茂生の名があったことはいうまでもない。


★SOCCER COLUMN

選手・八重樫茂生の記録

◇日本代表
 1956〜68年(13年間)140試合に出場して26得点。国際Aマッチ44試合出場11得点

◇オリンピック
【56年メルボルン大会】
 ▽予 選/2−0韓国、0−2韓国
 ▽本大会/1回戦(0−2オーストラリア)

【64年東京大会】
 ▽予 選なし
 ▽本大会/1次リーグ・1勝1敗(3−2アルゼンチン、2−3ガーナ)
         準々決勝(0−4チェコスロバキア)
         5・6位決定戦1回戦(1−6ユーゴスラビア)

【68年、メキシコ大会】
 ▽予 選/アジア第1組・4勝1分けで1位(15−0フィリピン、4−0台湾、3−1レバノン、3−3韓国、1−0南ベトナム)
 ▽本大会/1次リーグ・1勝2分け(3−1ナイジェリア、1−1ブラジル、0−0スペイン)
         準々決勝 (3−1フランス)
         準決勝  (0−5ハンガリー)
         3位決定戦(2−0メキシコ)銅メダル

◇アジア競技大会
【58年東京大会】
 1次リーグ・2敗(0−1フィリピン、0−2香港)

【62年ジャカルタ大会】
 1次リーグ・1勝2敗(3−1タイ、0−2インド、0−1韓国)

【66年バンコク大会】
 1次リーグ・3勝(2−1インド、3−1イラン、1−0マレーシア)
 2次リーグ・2勝(5−1シンガポール、5−1タイ)
 準決勝(0−1イラン)
 3位決定戦(2−0シンガポール)銅メダル

◇ワールドカップ
 62年チリ大会は予選敗退(1−2韓国、0−2韓国)

◇古河電工
 日本サッカーリーグ(JSL)で1956〜68年に、51試合出場14得点8アシスト。
 リーグ2位1回、3位2回。

◇天皇杯
 優 勝3回(第40、41、44回)
 準優勝1回(第42回)

◇早稲田大学
 関東大学リーグ優勝3回(1955、56、57年)
 大学王座決定戦優勝2回(1956、57年)
 大学選手権優勝1回(1956年)

(注)1968年メキシコ・オリンピックは第1戦で、66年アジア大会では第2戦で負傷し、以降は欠場している


パーチョンとペラ
 早大在学中に関東大学リーグで3年連続優勝したパーチョンこと八重樫茂生は、卒業すると古河電工に入社する。
 すでに古河には3歳年長の長沼健が入っていて、チーム強化を図っていた。
 ここで彼はペラさんこと平木隆三(名古屋グランパスエイト初代監督)と顔を合わせた。平木は大阪の岸和田高校出身で関西学院大学に進み、1954年(昭和29年)から日本代表のFB(フルバック=ディフェンダー)となっていた。関東のナンバーワン早大に対して、関西の王者、関学は対抗意識も強く、大学王座決定戦でのライバルだった。
 2人のライバルは古河の合宿所では同室となり、後に入ってくる宮本征勝、川淵三郎、鎌田光夫たちとともに古河の黄金期をつくる。
 プレーの形が美しく、出色のディフェンダーであった平木と、タフで手抜きをしない攻撃リーダーの八重樫の両人は、後輩たちにとって最も厳しい先輩だった。
 ライバル2人が協力して陣頭に立つことで、古河のレベルアップ、さらには日本代表を牽引し、東京、メキシコの両オリンピックの成果につなげた。


(月刊グラン2006年3月号 No.144)

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