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50年前に活躍した日本人初のFIFA常任理事 市田左右一(上)

アメリカ人と間違われた英語?

「市田左右一という変わった人がいるから会ってみては…」
 田辺製薬の常務だった手島志郎さん(1930年の極東大会での日本代表)から、こんな話が来たのは私が産経新聞のまだ若い記者時代。
 1954年(昭和29年)7月に尼崎製鋼という会社が2ヶ月にわたる労働争議のため潰れたこと、組合とわたりあった当時の常務、市田左右一さんが、その後すぐ文藝春秋9月号に『会社はストで潰された』という原稿を書いたことも知っていた。
 どんな人だろうかという好奇心が半分、原稿になるのかなという不安が半分だった。
 あってみたら、とにかく面白い。済んでしまったストのことよりも、この人の視野の広さ、話の幅の大きさに引かれてしまった。
 いわく「会社の出張でヨーロッパに行ったとき、若いアメリカ人カップルに出会った。気性の良い若者だが、文字通りの貧乏旅行らしい。こちらは多少ゆとりがあったから、何ヶ所かの観光を付き合い、食事をおごったら、別れるときにこう言う。『旅先で同じ国の人に親切にしていただいて、つくづくアメリカ人であったことをありがたいと思いました』と」。
「これは決して、僕の英語が上手だと自慢しているのではない。僕のような東洋人の顔つきをしていても、英語をしゃべって話が合えば、同国人だと思うほどアメリカは多様な人種の国だということなのだ」
 やっぱり英語の自慢もあるなあと思っても、そのものの見方、視野の広さに一本取られた感じになる。
 広島高等学校時代にはサッカーに相当打ち込んだが、先輩の手島志郎などから見れば腕前も大したことはないと言いながら、九州大学でも主将だったから、決して嫌いではないらしい。
 その九州大学で冶金化の博士課程を終えた後、社会に出てからまた大学に戻り、論文を認められたれっきとした工学博士である。
 ものづくりの技術者としての知識と経験のうえに、そのころはまだ一般には夢だった海外での暮らしや、仕事の経験がたっぷり――といったこの人のことを書きたくなったのはいうまでもない。


ラーマン首相にウナギの土産品

 後から考えると、私とドクター市田を会わせたのは、名ストライカー手島志郎の戦略。ドクターをサッカー界に引き込むためのステップの一つだった。
 1958年(昭和33年)に第3回アジア大会、そして64年に東京オリンピックと大きな大会を控えている日本サッカー協会(JFA)には、外国語が達者で、海外との交渉ごとが上手なドクターのような人が必要とにらんでのこと。こちらは一役買わされたらしい。
 そのアジア大会に際してのアジアサッカー連盟(AFC)の総会で、ドクターは得意の話術で、時のマレーシア首相であり、AFC会長であったトンク・アブダル・ラーマンの心をつかみ、JFA常任理事、市田左右一はAFCから国際サッカー連盟(FIFA)へ送り込まれる唯一の常任理事に選出された。アジア大会には、FIFAのサー・スタンレー・ラウス会長も訪れていて、ここでもドクターはラウスさんに気に入られてしまう。
「サッカーの腕前は大したことなかった」ドクターは、自ら工夫して、自分流の高さに到達した戦前派の名人、上手と違い、レベルアップにはよい環境でよい相手と試合をし、練習をするのがよい国際交流に思いをいたす。59年、ラーマン首相の提唱で始まったアジアユース大会も、発案はドクターだったという説もある。第3回アジア大会で不成績の日本代表の強化策についても、この人は、アジア各国と年に3回ぐらいの定期的な交流期間を持つべきだと主張して、竹腰重丸技術委員長を当惑させていた。
 その第1回アジアユース大会に日本代表の高校選抜チームとともに、マレーシアへ飛んだ私は香港の空港で、香港協会の大物、李彗堂が着陸した飛行機のドアの下に現れたのには驚いた。同じ英国航空のコメット・ジェット・ライナーに乗っていたドクター市田を迎えに来ていたのだった。おかげで私たちのチームはドクター同様に通関手続きも至極簡単に済み、あらためてFIFA常任理事の重みを知った。
 何事もそつのない常任理事は羽田搭乗時に、当時の超新型ジェット機の客室乗務員に小さな折箱を預けていた。いぶかる私の顔を見てドクターは「これはウナギのカバ焼き。ラーマン首相の大好物なんだ」と言う。
 例の“ふん”という顔つきで、さりげなく言う国際人に、一生懸命練習して勝つことも大切だが、こういう気配りもまたサッカーでは重要なことだと教えられたのだった。


郵便切手でも特異性

『会社はストで潰された』に見るとおり、書き物の上手で早いこともドクターの武器だった。JFA機関誌へのFIFA総会出席リポートも見事なもの。
 1958年(昭和33年)の総会で、中国が台湾問題で脱会するいきさつなども簡潔に生き生きと描かれている。
 ドクター市田は東京生まれの東京育ちだが、出自は神戸・元町にあった市田写真館。明治初めに市田左右太が開いたもので、戦前の神戸ではハイカラな外観でよく知られていた。ドクターの父は3代目に当たる。こうした市田家の家系の一端を私がここで紹介できるのは、財団法人日本郵趣連合会の行徳国広事務局長のおかげで、その機関誌「全日本郵趣」に連載された『ドクター市田のルーツを探る(1)〜(4)』(丹下申一)や『市田博士を偲ぶ』(日本郵趣連合会長・金井宏之)などの資料をいただいたからだが、こうしたドクターに関する書き物の丁寧さを見ると、郵便切手の世界でのこの人の存在の大きさが門外漢のこちらにも伝わってくる。
「切手界での業績は何といっても日本手彫切手の収集、研究とそれに関する著作、海外への紹介であり、その集大成である『竜切手』(英和文で2回)、『桜切手』(同上)、『墨六』、『青一』などの郵趣史に残る名著を刊された」とうのが金井会長の『市田博士を偲ぶ』にあるが、サッカーと同様、ここでも組織作りと国際的な活躍が大きかったようだ。
 その国際人、市田さんによって、東京オリンピックの一部を大阪で開催することができたお話を次回に――。


市田左右一・略歴

1910年(明治43年)12月30日、東京に生まれる。
1927年(昭和2年)東京高師付属中学卒業(37回)。同年、広島高等学校に入学。サッカー部に。
1931年(昭和6年)インターハイ(旧制高校大会)に出場。
1932年(昭和7年)九州大学入学。
1934年(昭和9年)同大学冶金科博士課程終了。
1935年(昭和10年)市田写真館社長に(40年まで)。
1938年(昭和21年)尼崎製鋼入社。
1946年(昭和21年)同社常務取締役に。
1950年(昭和25年)九州大学で工学博士号を取得。
1954年(昭和29年)7月、尼崎製鋼解散。
1955年(昭和30年)淀川製鉄所顧問に。
1957年(昭和32年)JFA常務理事に。
1958年(昭和33年)5月、AFC総会でFIFA常任理事に選出。
           6月のFIFA総会で正式決定、東京オリンピックを控えたJFAの国際会議での発言力を増し、アジアの代表として、オリンピック委員、ワールドカップ委員、規約改定委員、財務委員など数々の仕事をこなした。
1976年(昭和51年)日本特殊形鋼会長に。
1986年(昭和61年)6月30日、死去。

 サッカーとは別に、郵便切手収集の権威でもあり、郵趣界の組織づくり、国際化に努めた。


★SOCCER COLUMN

サッカー畑の異才たち(1)白洲次郎さん
 夫人の白洲正子さんのほうが一般的には知られているが、このところ夫の白洲次郎さん(1902〜85年)の人気が高まっている。大戦直後、吉田茂首相の懐刀として対米交渉に力を尽くした人だが、その功績とともに、天衣無縫ともいえる生き方に男のダンディズムと共感する人も多い。
 その白州さんは神戸一中22回卒業で、43回卒業の私の大先輩。20年(大正9年)度のサッカー部のキャプテンだった。この人のことを書いた本の中に、同じ神戸一中野球部員とあり、写真も掲載されているが、これは16年(大正5年)、彼が1年生のときのもの。2年生からア式蹴球部に入り、3年生からレギュラー、最上級生のときにはCHをつとめた。2年下に小島政俊、高山忠雄などがいて、黄金期を迎える少し前だった。神戸一中を卒業して、英国のケンブリッジ大学に留学し、この17歳から26歳までの海外生活が大戦後の外交での活躍の素地を作る。
 私は全くお目にかかったことはないが、27回卒業の故・西垣光温さん(京都・十二段家の主人)が何かの折に、ケンブリッジのユニフォーム姿で白洲さんがグラウンドに来た――と語ったのを覚えている。ついでながら、次郎さんの兄、尚蔵さんも神戸一中16回卒業で、創部2年目のチームのGKだったが、若いうちに亡くなられたようだ。


サッカー畑の異才たち(2)マエストロ、朝比奈隆さん

 クラシック好きで朝比奈隆さん(1908〜2001年)の名を知らぬ人はいないだろう。90歳を超えてなお、タクトを握られ、世界的にも著名だった。
 その朝比奈さんはインターハイ華やかなりしころ、東京高等学校の第1回卒業(1928年=昭和年3年)だから、市田さんより少し上になる。新設の学校でまだ伝統もなく、インターハイも上位へは進めなかったが、同期に篠島秀雄さん(故人)、日向方斎さん(故人)がいた。
 篠島さんは東大に進んで名FWとしてならし、30年の極東大会の代表として活躍した。後に三菱化成の社長となり、日本サッカー協会(JFA)の副会長として長沼健、岡野俊一郎らの若い人たちを育てた。日向さんは住友金属の社長として、長く関西財界のトップにあって、サッカーでも関西協会名誉会長、JFA副会長を務めた。
 朝比奈さんは指揮台での姿どおり、長身の、体のしっかりしたディフェンダーだったが、京都大学では左ひざを負傷し、2回生で試合出場をやめた。96年(平成8年)に京大サッカー部が創立70周年を迎えたとき、後輩たちからユニフォームを贈られてとても喜んだという。


(月刊グラン2006年4月号 No.145)

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