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50年前に活躍した日本人初のFIFA常任理事 市田左右一(下)

王、長島、イチローとタイカップ

 プロ野球の日本代表チームが第1回ワールドベースボールクラシック(WBC)で優勝した。野球というスポーツに国際性を持たせ、国別の対抗試合の面白さをテレビを通じて多くのファンに見せたが、名古屋人にとっては、日本チームのリーダーがイチローであったこと、福留孝介が劇的な働きをしたこともあって、喜びもひとしおというところだろう。
 野球は早くから日本で普及し、国民的スポーツとまで言われながら、国際性に乏しく、ここしばらくは若年層が離れ始めていたことから、この大会で勝ったことは画期的と言える。
 若い記者時代から、スポーツ紙の編集局長の10年間を含めて野球にかかわってきた私から見ても、現在のベースボール普及地域、プロを生む(それがほとんどアメリカで働くにせよ)国々の国別対抗試合があったことは、とても意義があったと思う。たとえ、それが太平洋の周辺とカリブ海周辺といった世界のほんの一部の地域でっても、そして、その開催者が本当の国際組織でなくても、とにかく、プロフェッショナルの国際大会が開かれたのだから――。
 そして日本では、早くから野球の国際性の必要に目をつけ、プロ野球のオリンピック参加にも熱心だったのが長嶋茂雄であり、その長島が病気のために果たせなかった仕事を引き受け、代表チームをまとめたのが監督・王貞治だった。
 チョウさん(長嶋)の先見性と王の実力とを思いながら、1964年(昭和39年)の東京オリンピックのとき、駒沢競技場での日本対ガーナ戦を、私の近くの報知新聞の記者席でこの2人が観戦して、しきりに「迫力があるね」と言い合っていたのを思い出す。
 アメリカの大艦巨砲主義の欠点を解く人もあったが、メジャーリーグではタイカップ以来の「プレースヒッティングと走る」スタイルと20年代の“打者”ベーブルース出現からの「ホームラン主義」といった古くからの流れのあるアメリカで“日本のタイカップ”イチローを中心に、ホームラン・キングの王監督がスモールベースボールを掲げて勝ったのだから……。


関西でもオリンピック・サッカーを

 いささか野球の話が長くなった。私を含むサッカーのメディアも縦と横の目を持たなければならぬのは言うまでもない。その日本サッカーの国際人、FIFA(国際サッカー連盟)理事として活躍した市田左右一さんの「下」は「大阪に東京オリンピックを持ってきた」お話――。

 東京オリンピックのサッカーの一部を関西にという案は、オリンピック招致のころからあった。しかし、東京開催が決定し、組織委員会が設立され、仕事がどんどん進み始めると1次リーグのグループの一つを関西、一つは中京、一つを広島地区にといった案は消し飛んでしまって、東京、横浜、大宮が会場に決まっていた。
 しかし、私は諦め切れなかった。ただでさえ、一極集中の強まる中で関西もオリンピックを糧にしたい。前回のローマ・オリンピック(1960年=昭和35年)でもローマ以外の都市でグループリーグを行なっているではないか――。
 関西サッカー協会の川本泰三理事長が私の話を聞いて、「やってみよう」ということになった。64年10月の開幕の3年前から、こういうことを言い出すのは組織委員会にとって迷惑な話に違いないのだが……。
 上京して、与謝野秀組織委員会事務総長に面談した川本さんは、にべもなく断られた。ただし「そんなに大阪がオリンピックをやりたければ、アジア大会でも招致したらどうですか」という与謝野さんの言葉にカチンときた。「俺は本気になったからな」とベルリン・オリンピックの対スウェーデン戦の日本の1点目を決めた“シュートの名人”は電話でこう宣言した。反骨に火がついたのだった。
 事務総長は外交官だ。外交畑を攻めるのは海外からだ――と考えた川本さんは、FIFAにかかわってもらうことにした。そこでFIFAならドクター市田ということになる。
 大阪ではアフター・オリンピックの陸上競技の招致のために、すでに長居に収容力2万人、西日本では最大のコンクリートのメーン、バックスタンドを持つスタジアムの建設計画が進んでいた。


ドクターとラウス会長

 ドクター市田とFIFAのラウス会長のやりとりがあり、ラウス会長が与謝野さんへ直接働きかけた。さすがに今度はにべもなく断るわけにはいかない。
 そこでラウス会長は新しい案を出す。「東京オリンピックの準々決勝で破れた4チームを関西に集めて、ノックアウト方式で5、6位を決める大阪トーナメントを開催したい」
 サッカーの順位は3位まで(金、銀、銅メダル)だが、ほかの競技では6位入賞まであるのだから、サッカーも5、6位を決めていい――というのがその理由。オリンピックの競技運営には、各スポーツの国際連盟がかかわることになっている。東京オリンピックのスケジュールを変更せずに、新たに加えるだけのこの案に反対はできない。
 大会の2年前に与謝野さんからラウス会長に宛てた「私はFIFAの申し出に傾きつつあります」という慎重な言い回しながら「FIFAとJFA(日本サッカー協会)の責任で大会を開くことに賛同する」という手紙が届いた。
 東京オリンピックの前年にラウス会長は、グラナトキン(ソ連)、バラッシ(イタリア)両副会長とともに大阪を訪れて、長居競技場の準備状況を視察した。そのときFIFA会長の重みを知ることの少ないメディアのために、当時の大阪サッカー協会の日向方斉会長に伊丹空港まで出迎えてもらうことにした。住友金属の社長で財界の大物が出迎えるというので、経済部の記者たちもやってきて、改築中の狭い空港の貴賓室はいっぱいになった。
 折からIOC(国際オリンピック委員会)のブランデージ会長のサッカー嫌い(サッカーがアマもプロも同一協会に入っているのが、アマ主義の会長には理解できない)から、オリンピックでのサッカー除外の話も出ていた。私がそれについて質問するとラウス会長は「FIFAは常にIOCと話し合って解決を図っていく。しかし、もしオリンピックから出るのなら、FIFA独自でアマチュアの世界選手権を開催する用意がある」と答えた。多くの記者を前にしたこの発言は、ニュースとして世界に流れた。
 その夜のレセプションに同席した私は、あらためてラウス会長の機知あふれる話術に感嘆したが、こうした経験もすべてドクター市田の手引きによるものだった。
 第18回オリンピック東京大会のサッカー、大阪トーナメントは1964年(昭和39年)10月20日に、大阪でユーゴスラビア対日本(6−1)、京都でルーマニア対ガーナ(4−2)、22日に大阪でルーマニア対ユーゴスラビア(3−0)を行ない、ルーマニアが5位、ユーゴスラビアが6位となった。
 東京での3試合で疲れきった日本は1回戦で敗れたが、3試合とも盛況で、大会は大成功――長居競技場でオリンピックのサッカーを行なったという実績が、2002年の前に早々と改装時に屋根をつけ、ワールドカップの会場への伏線となった。
 ドクター市田はオリンピック終了とともにFIFA理事を辞め、JFAからも去った。前述のアマ・プロ問題でIOCが神経を尖らせていた63年にJFAの機関誌に堂々と「日本にもプロをつくれ」という意見を掲載していた。
 ソフト帽をかぶり、パイプをふかし、ずばり正論を述べ、ちょっと横柄に見えて、さあというときに頼りになる国際人は、86年に去った。20年後のその日、6月30日にドイツでのワールドカップ準々決勝に日本代表は勝ち残っているのだろうか――。


★SOCCER COLUMN

FIFAと日本(1)赤じゅうたんとフリーパス
 FIFAがJFAと密接にかかわるようになったのは、1964年(昭和39年)の東京オリンピックから。初代のロベール・ゲラン会長から数えて6代目のサー・スタンレーラウス会長のとき。第7代アベランジェ会長は日韓のワールドカップ共催という、史上初の2ヶ国による大会を取りまとめたことで、非常に印象が強い。
 第8代ブラッター会長は79年の第2回ワールドユースのときに、FIFAの事務局のメンバーとして事前の調査に初来日、大会では再来日して運営にあたった。昨年のコンフェデレーションズカップでの記者会見で当時のことを振り返り、日本とはずいぶん長い付き合いだと言っていた。
 世界最大のスポーツの会長の権威はなかなかで、各国政府もその会長には敬意を払い、アベランジェ前会長には、多くの国が最高の勲章を贈っていただけでなく、出入国の際にも外交官特権と同じようにフリーパスが普通だった。
 かつてアベランジェ会長はこんなことを言っていたことがある。「日本は何事もてきぱき、几帳面にする国だが、私が出入国するときにいちいち税関を通るのは何とかならないかなあ。どこかの国のように、タラップから私のために赤いじゅうたんをひけとは言わないがね」


FIFAと日本(2)78年前に口頭で加盟申入れ
 FIFAの記録によると、JFAの加盟は1929年(昭和4年)〜45年、そして再加盟が50年となっている。
 JFAの創立は21年(大正10年)だから、創立後9年でFIFAに加わったことになる。
 28年、第9回オリンピック大会がオランダのアムステルダムで開かれたとき、当時、JFAの理事であり、大日本体育協会の役員でもあった野津謙第4代JFA会長(故人)がオリンピック選手団役員として同行し、同地のFIFA本部(当時)を訪れて、JFAの加盟の希望をヒルシュマン事務総長に口頭で申入れた。今なら書式が必要なところだが、事務総長は前年の極東大会で日本がフィリピンに勝ったことも知っていて、申し込みを受け付けてくれた。この年7月に仮加盟、翌年の総会での承認で正式加盟となった。しかし、第2次大戦後、5年間の資格停止となり、50年のリオデジャネイロでの総会で復帰が可決された。同年9月に正式に復帰し、翌年の第1回アジア大会という国際舞台での試合が可能になった。2002年のワールドカップ開催の52年前のことである。


(月刊グラン2006年5月号 No.146)

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