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60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(上)

実業団で94戦無敗の大記録

 日本サッカー協会(JFA)は4月13日の理事会で、第2回「サッカー殿堂」の掲額者10人を決定、発表した(コラム参照)。その中に戦後の復興期にかけて活躍したプレーヤーの一人として、賀川太郎の名があった。私にとって、2歳年長の兄。1922年(大正11年)生まれで、43年(昭和18年)12月のあの“学徒出陣”の世代で、文字通りの戦中派である。
 弟の私が選手として太郎を紹介するのは、いささか忸怩(じくじ)たる思いがないわけではない。しかし、多くの人にはすでに遠い過去となってしまった太平洋戦争をはさんでプレーを続けた“戦中派”の代表格として掲額される今、彼を語ることはサッカーだけでなく、当時の社会の中での若者の姿を眺めることにもなる――と『このくに と サッカー』の登場者とした。

 名古屋には縁があった。40歳をはさんでのあとさきしばらく、田辺製薬の名古屋支店にいたとき、サッカーの虫らしく、この地の仲間とともにプレーを楽しんだ。“年寄り”チームの中で、賀川太郎のキープ力と巧みなパスは、お役に立ったことと推察している。89年(平成元年)発行の刈谷高校サッカー部70年史『赤ダスキの歩み』に彼の寄稿があるのは、このときの刈高OBたちとの交流の縁からだろう。
 旧制・神戸一中の3年生で全国中等学校蹴球選手権大会に出場して準優勝、4年生で優勝、5年生で主将のときに2回戦で札幌師範に敗れたのは、彼のサッカー人生の中での痛恨事だった。この敗戦の後に、1回戦で戦った愛知商業の選手から手紙をもらって、ずいぶん励まされた様子だった。秋の明治神宮大会で優勝して、伝統あるチームの主将の責任を果たせたのだが、“愛商からの手紙”が秋の成功と無縁ではなかった――と私はひそかに考えている。

 さて、賀川太郎のサッカー人生で、まず、晩年、60歳を超えて、なお公式リーグ戦に出場していたという驚くべき記録をお伝えしなければなるまい。
 田辺製薬で94戦無敗の記録と全国実業団選手権6連覇、そして1年間のブランクの後に57年、7度目の優勝を遂げているが、このとき35歳だった。
 すでに日本代表からは離れていた。会社の仕事も忙しくなり、練習も十分にできない。しかも年齢は高くなっている――JFAが代表の大幅な若手への切り替えを図ったのが54年から。普通なら、こういった状況に置かれた選手は、急速に力が衰えるのだが、この人の不思議さは54年5月の第2回アジア大会(マニラ)での体調不良から立ち直り、秋の全国実業団選手権でそれまで以上のプレーを見せたのに続いて、代表や大阪クラブを離れて田辺製薬一本となった試合で、鴇田正憲とのペアプレーがますます冴えたことだった。
 実業団の第一線から退いても、プレーへの執着は続き、彼らが東京で岡野俊一郎や英国人のクリス・マクドナルドたちと組んだチーム「東京トリッククラブ」での試合にも現れ、鴇田とのペア攻撃の巧さに、来日中のデットマール・クラマーが賞賛したこともあった。
 45歳で岡山に新会社(良互薬品)を設立して社長となった後も、ボールを蹴り続けた。もちろん仕事がら、ゴルフにも手を染めた。特に練習もしないのに、1年でハンディ16になったのだから、嫌いではなかったはずだ。そして、ゴルフでボールを叩く、スイングとインパクト、体重の移動などの動作からヒントをつかみ、サッカーにまた興味を増したともいっていた。


50歳を超えて新しい技

 50歳を超えた仲間の試合で、私も何度かプレーをともにした。もちろん、若い人のように早い動きはできないが、しっかりキープして相手に取らせず、決定的なパスを出し、また自らもシュートしてゴールするのは昔ながらだった。神戸FCの加藤寛コーチ(現・ヴィッセル神戸)が「太郎さんが新しいフェイントで抜くのを見た」と驚いていたこともあった。
 良互薬品のチームが岡山県3部リーグで優勝して、2部リーグに昇格した。
「60歳を超えて、2部の試合は相手がよく走るだけに、ちょっとしんどい」と電話の向こうからの声に「高校を出たばかりの若い人の多い2部の試合に、その年で出るのは無理だよ」というと、「オレが出ないと得点できないからね」とうそぶいていた。
 昔からのインサイドFW、今でいう攻撃的MFとして、中学校から大学まで広範囲な動きで先輩たちを瞠目(どうもく)させ、日本代表でのプレーでは来日したヘルシングボーリエの団長から「スウェーデンのナショナル・リーグでも通用する」と評価され、大阪クラブでは川本泰三、岩谷俊夫とのいわゆるセンタースリーのパスのテンポのうまさに、中国人チームが舌を巻いた――そうした自分のプレーを60歳を超えて、なお、追求してゆきたかったのだろうと思う。
 その元気さゆえに、彼に取りついたガンもまた、パワーが強かったのかもしれない。67歳という若さで去ってしまったが、病に侵されるまで、プレーに執着したこの人の歩みを、次号から振り返ってみる。


賀川太郎・略歴(1)

1922年(大正11年)8月9日生まれ。
1935年(昭和10年)3月、神戸市立雲中尋常小学校卒業。
            4月、兵庫県立第一神戸中学(略称=神戸一中)に入学、サッカー部に入部。
1937年(昭和12年)3年生のときにレギュラーとなり、第19回全国中等学校蹴球選手権大会(現・高校サッカー選手権)で準優勝。
1938年(昭和13年)第20回大会で優勝。ポジションはCF。
1939年(昭和14年)主将となるが、第21回大会は2回戦で敗退。
            秋の明治神宮大会では北海中学、広島一中、明星商業を破って優勝。天覧試合の対広島師範(15分間)にも1−0で勝つ。
1940年(昭和15年)神戸一中を卒業、神戸商業大学予科(現・神戸大学)に1回生として入学、サッカー部を創部、予科1年から神戸商大のレギュラーで関西学生リーグに出場。
1943年(昭和18年)12月8日、学徒徴兵猶予令撤廃によって、大学2年のとき、舞鶴海兵隊に入隊。予備学生試験を受けて、翌年、土浦航空隊、出水航空隊を経て、筑波航空隊に勤務。
1945年(昭和20年)海軍特別航空隊員として北海道千歳航空隊で演習中、8月15日終戦。大学に復学。
            10月、復員した仲間たちが集まり、戦後最初の試合を行なった。
1946年(昭和21年)2月、復活した東西対抗、学生選抜対抗に西軍主将で出場、2−2。
            5月、第26回天皇杯に神戸経大(商大を改名)クラブで準優勝。
            10月、関西学生リーグで優勝。
1947年(昭和22年)4月、東西対抗の両軍メンバーとして天覧試合に出場。第2回国体(金沢)で神戸経大は準優勝。
1948年(昭和23年)田辺製薬に入社、同社サッカー部へ。
1950年(昭和25年)第3回全国実業団選手権で田辺製薬は初優勝。同年4月9日の関西予選から、56年5月27日の関西実業団選手権決勝で敗れるまで、全国選手権6連覇を含む94戦93勝1分けの記録を残す。
1951年(昭和26年)インド・ニューデリーでの第1回アジア大会に日本代表として出場、3位。
            大阪クラブを結成、5月の第31回天皇杯で準優勝。同クラブは翌32回、33回にも準優勝。
1952年(昭和27年)秋の国体(仙台)で田辺製薬が大阪代表として優勝。
1953年(昭和28年)日本代表として、6月、西ドイツのクラブ、オッフェンバッハFCキッカーズ、11月にスウェーデンのクラブ、ユールゴルデンなどの来日した欧州チームとの対戦に出場。
            ※以降の略歴は『賀川太郎(中)』に掲載


★SOCCER COLUMN

日本サッカー殿堂と第2回掲額者
 日本サッカーの殿堂については、この雑誌の135号(2005年6月号)に第1回掲額者の発表について紹介した。このときはJFA歴代会長、初代・今村次吉から第9代・岡野俊一郎までの9人と、特別選考の竹腰重丸、田辺五兵衛、山田午郎、川本泰三、村形繁明、デットマール・クラマーの6氏と東京、メキシコ両オリンピックで活躍した5選手、釜本邦茂、杉山隆一、平木隆三、宮本征勝、八重樫茂生が殿堂入りした。
 第2回は以下の10氏が殿堂入りした。JFAの創設時代から東京五輪まで、長く協会のために尽くした新田純興。選手として日本代表であり、JFA副会長も務めた篠島秀雄、玉井操。大戦後から東京オリンピックへの復興期のJFAの専務理事、小野卓爾。ベルリン・オリンピックチームの主将・竹内悌三。そして第1回アジア大会の監督、選手であり、国内でも天皇杯7度獲得の二宮洋一。さらにアジア大会の第1、2回、ワールドカップ予選・日韓戦などで奮闘した賀川太郎、岩谷俊夫、鴇田正憲らの戦後の復興期プレーヤー。そしてレフェリーの福島玄一氏が選ばれた。
 2000年5月から始まった月刊グランの『このくに と サッカー』の連載では、第1回の掲額者のうち、竹腰、田辺、クラマー、歴代会長の中では第6代・藤田静夫、第8代・長沼健、第9代・岡野の3会長を、東京、メキシコ組から釜本、杉山、平木、八重樫の各氏を紹介した。第2回の掲額者ではすでに二宮、鴇田、岩谷氏を取り上げている。お読みになりたい方は、グラン編集部まで――。


3度の天覧試合に出場した賀川、宮田
 1939年(昭和14年)秋の明治神宮大会、蹴球中等学校の部で優勝した神戸一中は、師範学校の部で優勝した広島師範と15分間の天覧試合(戦前はこう呼んでいた)に出場。短い時間であったが、神戸一中がCKから1ゴールを挙げて勝った。昭和天皇は、このとき軍服姿だったが、玉座から身を乗り出して熱心に観戦されたという。
 大戦終結から1年半後、47年4月3日、東京の神宮競技場(現・国立競技場)での東西対抗を昭和天皇がご観戦。試合終了後にお言葉を述べられ、選手たちを激励された。このときの西軍には神戸一中で同期の宮田孝治もいた。宮田は日本代表のHB(今の守備的MF)で、田辺製薬でもチームメート。
 52年に田辺製薬が国体の大阪府代表となって社会人の部で優勝したが、この仙台での試合をも昭和天皇は観戦されたから、賀川太郎と宮田孝治は17歳から30歳までの間に、3度、昭和天皇の前でプレーしたことになる。


(月刊グラン2006年6月号 No.147)

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