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60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(中)

 FIFAワールドカップ2006ドイツ大会が目前に迫ってきた。
 98年から3回続けて、この大会の大舞台に日本代表が出場する。地球上のほとんどの地域でメジャースポーツであるサッカーの、200以上もの国々の中から集まる32のナショナルチームの中に「わが代表」がいて、その活躍を応援し、一喜一憂し、世界の人たちと共通の楽しみを持つ――まことにいい時代になったものだ。
 名古屋グランパス代表にGK楢崎正剛とFW玉田圭司が参加している。楢崎はある時期のレギュラーであったが、今は川口能活の控えに回っているが、安定感のある楢崎の守備力はジーコも高く買っている。いざというときの活躍はもちろん、これから1ヶ月余のドイツでの経験が彼のステップアップにつながると期待したい。玉田にとって、高いレベルの中でのタイトルマッチは、まさに一皮むけるチャンスである。自らを鍛え、努力してきた彼の選手人生に大きなプラスが生まれることを願っている。

 さて、このシリーズの今回のテーマは前回に続いて賀川太郎(1922〜90年)。あの大戦争が終結してから9年後、日本が初めてワールドカップに挑み、いまや伝統となった予選の日韓戦のメンバーであり、去る5月23日、「日本サッカー殿堂」に掲額された一人。その表彰文に「戦中派を代表する名選手」とあった。
 私にとっては2歳年長の兄で、雲中小学校、神戸一中(現・神戸高校)、神戸商大(現・神戸大学)と同じ学校で、社会に出てからも同じチームでプレーした。


投手で4番、フィギアでも注目

 小学校のころから“チビ”で通っていた私に比べると、太郎は当時の日本人では中肉中背の標準サイズ。少年期はむしろ大きい方だった。同じ兄弟でも、人にはそれぞれ素質がある――と私が早くから思い知らされるほど、スポーツは何をやっても上手だった。
 生まれ育った神戸という町は、当時、サッカー(蹴球といっていた)が盛んな方だったが、やはり少年期は野球をした。小学校の代表チームの投手で4番打者。“みなとの祭”の大会で優勝し、三振奪取王だった。同じ世代に、後に巨人で有名になった別所毅彦がいた。小学生のころから別所は速球で有名だったが、太郎はコントロール派だった。
 スケートも上手で、神戸のアイススケート場で彼が滑っているのを見た場長さんが、父・陸蔵(1891〜1944年)に「この子の素質はすばらしい。毎日うちへよこしてくれたら、オリンピック選手に仕上げてみせる』と言っていた。
 習字も同じ先生に習っているのに、私は全国入選がせいぜい。彼は全国第2位の銀賞を取って、小学校の朝礼のときに壇上に上げられ、校長がそのことを紹介していた。
 勉強もよくできて、ずっとクラスでは「級長」だった。神戸一中には当然のように入学し、当然のように1年生から「級長」だった。5年生のときは校旗の旗手だった。
 旧制中学を卒業して進学するとき、慶応へ行くか(当時サッカーが強かった)、新設された神戸商大の予科へ行くか迷った。両方とも受験は通っていた。慶応は理財科(経済)だった。二宮洋一さん(第2回掲額者)が最終学年の年で、「慶応に入って俺と一緒にやろう」と誘いに2度もわが家に足を運んでくださったが、神戸商大の予科を選んだ。
 勉強も運動(スポーツ)もできた生徒であり、当時の言葉でいう「文武両道」の学生であった。


中3でレギュラー、全国大会準優勝

 神戸一中で太郎がサッカーを始めたのは、わが家の隣家に当時の神戸一中の部長・河本春男先生が下宿していた関係。
 バランスがよく、体力も走力もあったから、3年生からレギュラーになったのだろう。この年の神戸一中は全国中等学校蹴球選手権大会の決勝で埼玉師範に敗れた。8月27〜30日までの4連戦で、4年生以下が7人いるチームは体力を消耗し、年齢も上で体力もしっかりした埼玉師範に2−6で完敗。全国大会の優勝旗は初めて箱根を越えることになった。
 次の4年生のときには、全国大会で優勝する。友貞健太郎という小柄だが俊足の右ウイングがいて、5年生のほとんどが小学生のころからの経験者。久しぶりに参加してきた朝鮮地方(当時は日本の一部)の代表、崇神商業との準決勝(2−0)が最も緊張感があったというほど。豊島師範や滋賀師範といった強チームを3−0、5−0といったスコアで破り、8月の4連戦も問題なくこなした。太郎はCFを務め、得点を重ねた。ベルリン・オリンピックの2年後であり、神戸一中は3FBを取り、予選から本大会決勝までの7試合を無失点で通した。
 5年生のときにはキャプテンとしてチーム全般に気を配ることになる。指導経験の長い河本春男部長が、岡山の女子師範学校に請われて転勤したのが、太郎たちには響いたらしい。
 夏の全国大会の予選の決勝では、延長に入る接戦。太郎のドリブルシュートで勝ったが、優秀な5年生を大量に送り出した後の強化は難しく、8月の本大会では2回戦で敗退した。
 太郎にとって幸いだったのは、秋の明治神宮大会という総合競技大会にサッカーの中等学校の部が加えられたこと。夏のリベンジをと気合の入った練習の成果で、県予選を経て本大会に進み、準決勝で夏の覇者、広島一中を3−2で倒し、決勝で明星を1−0で破った。また、この年は昭和天皇の天覧試合が特別に催され、広島師範との試合が行なわれた。わずか15分間だったが、それも1−0で勝った。
 この前年に阪神間は大豪雨に見舞われて、六甲山の各地で山崩れがあり、大水害となったが、神戸のわが家には被害はなかった。
 不拡大を唱えながら、中国での戦争は広がり、満州国とモンゴル人民共和国との国境線をめぐるソ連とのノモンハンの戦争で、日本陸軍は手痛い打撃を受けていた。しかし、私たちの世代の学生は、まだサッカーに打ち込めた時代だった。2年後の太平洋戦争の開戦は予想もつかぬことだった。


賀川太郎・略歴(2)

1954年(昭和29年)3月、ワールドカップ・スイス大会の極東予選、対韓国戦2試合(東京)U出場、1−5、2−2。
            5月、第2回アジア大会(マニラ)に日本代表として参加したが、体調不良で第1戦の前半だけの出場となる。この年の公式国際試合の敗戦で日本サッカー協会は日本代表の若返りを図り、二宮洋一、賀川太郎、宮田孝治たちの戦前、戦中派の30歳以上の選手は代表を離れた。
            9月、田辺製薬は全国実業団選手権で5連覇を達成、マニラでの不調を脱して、賀川、鴇田正憲のペアは新境地を開く。
1956年(昭和31年)実業団の登録ルール変更で、東京に勤務していた賀川をはじめ、主力を欠いた田辺製薬は全国選手権で準優勝に終わる。
1957年(昭和32年)登録ルール再変更で賀川たちが戦列に加わり、田辺製薬は第14回全国実業団選手権に7度目の優勝。
1960年(昭和35年)第一線のプレーから退いたが、東京に勤務してきた鴇田とのペア復活。東京トリッククラブで岡野俊一郎たちとプレーを楽しむ。対古河電工戦を見たデットマール・クラマーが「パスの受け渡しの手本」と賞賛した。
1962年(昭和37年)名古屋グランパスエイトへ転勤、名古屋クラブでOBの試合を楽しむ。
1967年(昭和42年)岡山に移り、(株)良互薬品を設立、社長に。
            会社のサッカーチームをつくり、自らも選手として岡山県リーグに出場。62歳でなお、県リーグ2部の公式試合でプレーを続けた。
1990年(平成2年)3月6日、死去。67歳。


★日本サッカーの流れと2006年W杯。2度あることは3度ある?

チョー・ディンから13年。東京・極東大会の次のベルリンで
 日本サッカーの技術、戦術の発展の歴史の中で、いくつかのエポック・メーキングな事件を見ると……。

 (1)1917年(大正6年)第3回極東大会が東京で開催され、そのさっかー競技に日本が初参加し2戦2敗。これが刺激となる。

 (2)1923年(大正12年)ビルマ人、チョー・ディンの全国巡回指導で、基礎技術アップが進む。その7年後――。

 (3)1930年(昭和5年)東京での第9回極東大会で日本代表がフィリピンに勝ち、中華民国と引き分け、初めて極東の1位に。その6年後――。

 (4)1936年(昭和11年)ベルリン・オリンピックで日本代表が優勝候補のスウェーデンに逆転勝ち。

 (5)日本代表や少数ながらトップ級の選手の力は向上したが、10数年のサッカーの上昇も、日本陸軍の中国侵攻に始まり、太平洋戦争へと続く対戦のためストップ。戦災と戦後の物資不足でスポーツの停滞期に入る。


東京大会の次のメキシコで銅。日韓共催W杯の次は…

 (1)1951年(昭和26年)閉ざされた国際舞台に復帰した最初の大会、第1回アジア大会で3位。

 (2)1960年(昭和35年)東京オリンピック(64年)を4年後に控え、デットマール・クラマーを招いて指導を受ける。

 (3)4年後の“東京”でアルゼンチンを破り、8年後のメキシコ・オリンピック(68年)で銅メダル。

 (4)さまざまな施策や強化にもかかわらず、代表の国際成績は足踏み。

 (5)1993年(平成5年)Jリーグ誕生で、サッカーの全国への普及のスピードが上がり、トップ級選手の力もアップ。

 (6)プロ化から5年、98年ワールドカップ・フランス大会に初出場。

 (7)2002年(平成14年)ワールドカップを韓国と共催。日本代表は2勝1分けでベスト16。サッカーの浸透も一段と進む。

 (8)2006年(平成18年)アジア予選を突破して、3回連続でワールドカップ出場へ。


 東京での極東大会の次にベルリンの奇跡、東京オリンピックの次のメキシコで銅メダル、日韓ワールドカップの次は――。“歴史は繰り返す”“2度あることは3度ある”かも――。


(月刊グラン2006年7月号 No.148)

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