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vol.3 イタリア(下)


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 世界の国々の風土や歴史、そして“ひと”とサッカーの関わりを眺めてみたい。という考えでスタートした「フットボール・アラウンド・ザ・ワールド」は、先月号に続いて、イタリア(下)に入ります。
 かつての古代ローマ帝国、そして中世、ルネサンス、さらには、今のイタリア・ファッション……、美術、音楽、芸術に長い歴史を持つこの国のサッカーも、また不思議な魅力を持っています。
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パオロ・ロッシの思い出

 4月22日、東京ドームで行なわれた「キック・エイズ '88」で、私たちは、世界サッカーのかつてのスターが「ペレ・オールスターズ」の名でチームを組み、見事なプレーを演じるのを見た。エイズという人類の大敵を撲滅するために世界にアピールし、また、患者救済や研究のための基金募集という大きな目的を持った催しだったが、ジョージ・ベストやケビン・キーガン、クロルやニースケンス、エウゼビオやクビヤス……などの、ドリブルやパスやシュートの一つひとつが、サッカー・ファンを“思い出”の世界へ誘うのだった。

 そのペレ・オールスターズの中で私は、パオロ・ロッシとベネッティ、ザッカレリを見ながら、1978年から82年にかけてのイタリア代表の栄光を思い出していた。第2次大戦の前に、3度行なわれたワールドカップのうち、2度(1934年、1938年)優勝したイタリアだが、大戦後、3度目の優勝(1982年)を遂げるまでには、40余年の年月を待つことになる。
 それは、1つには、トリノFCの飛行機事故の後遺症があったともいえる。この事故で優秀な代表選手を一挙に失ったイタリアは、1950年のワールドカップ・ブラジル大会では第3組の1次リーグで退くことになる。

 次の1954年、隣国スイスでの大会も、1次リーグ止まり。62年のチリ大会も同様に1次リーグで足踏みした。66年イングランド大会――この頃、すでにイタリアのクラブはヨーロッパのタイトルを取るようになっていたのに、代表たるナショナル・チームは1次リーグ第4組で1勝2敗、3位に終わった。
 ソ連(0−1)との敗戦はともかく、極東の小さな国・北朝鮮との試合(0−1)で負けたのに怒ったファンは、帰国したイレブンにトマトを投げつけて怒りを表した。

 4年後、1970年のメキシコ大会で、イタリアは決勝まで進み、ペレ、トスタン、カルロス・アルベルトなどのブラジルに1−4で敗れた。準決勝の対西ドイツ、延長戦に持ち込んでの4−3の死闘は歴史に残る試合でもあった。その次、74年は、70年とほぼ同じ顔ぶれで、大いに期待されながら、イタリア代表は1次リーグで、ポーランド、アルゼンチンに次いで3位となり、2次リーグへ進めなかった。


かんぬき作戦とリベロ

 この頃のイタリアはリーグでも「カテナチオ」と呼ぶ、守備重視の試合運び、守りを厚くして、相手の攻撃に耐え、チャンスに有効なカウンターアタックでゴールを奪うやり方が主流になっていた。

 北イタリアの4つの有名クラブ、つまり、トリノ市のFCトリノとユベントス、ミラノ市のACミランとインテル・ミラノのうち、まずインテル・ミラノが採用し、次いで、そのライバルのACミランへと広まっていったのだが、マン・フォー・マン:相手のFWの一人ひとりにマークがつき、さらに、守備ラインの後方に、リベロ(特定のものをマークしない)を置く守りは、まず数的優位で、守りを安定させることから始まる。
 そして7〜8人がペナルティーエリア、あるいは自陣25ヤードから内側で相手を待ちうけ、相手が攻めにどんどん人数を投入してきたとき(相手の守りが手薄になったとき)ボールを奪うと一気に突進して、ゴールを襲う。この時はチャンスであればFBも飛び出してゆく。とにかく、相手守備の手薄なうちに攻め入るのだ。

 インテル・ミラノのサンドロ・マッツォーラの直線的なドリブルや、長身、俊足のFB、ファケッテイの突進などが、こういう時にものをいうことになる。もし、先に1点を奪えば、しめたものだ。時にはファウル・プレーを平気でやってのけるDFを1対1で抜くことは難しく、また多人数の守備をパスで突破するのも困難となる。門に「かんぬき」をかけて、閉じてしまうという意味からカテナチオと名づけたこの守備重視の戦法によって、イタリアのチームは、ヨーロッパのクラブ・カップのタイトルも取るようになり、ヨーロッパにも、南米にも大きな影響を与えたのだった。


都市国家とカテナチオ

 ちょっと考えると、そんな試合だと面白くないのじゃないか、ということになる。サッカーは攻め合ってこそ、ゴールからゴールへボールが動き、シュートがどんどん飛ぶのがスリルがあるハズだ。
 しかし、イタリアでは、面白いサッカーをするよりも、まず勝つことが第一だ。
 勝つということは、負けないことが大事なのだ。だから、守りが強ければ、強い上手な相手と戦っても0−0で引き分けることができるかもしれないし、万が一、1−0で勝つかもしれない。
 もともとイタリアは都市の対立意識というか、対抗意識が強い。これは、都市が国のようにたがいに独立して発展してきた歴史の背景があるからだろう。そしてサッカーのクラブは、それぞれ都市をバックにして市民の中で育ってきたものだから、都市を代表して試合をするようになる。
 だから、スポーツマン・ライクないい試合をするよりも、“勝つこと”“負けないこと”が大切になる。

 この都市の対抗意識について元イタリア大使であった堀新助氏が、その著『不思議の国 イタリア』の中で、こんな風に書いておられる。
「各都市のサッカー・チームの試合にあれほど熱狂するのは、つい百数十年前まで、都市と都市が戦争に明け暮れていた時代からの対抗意識の名残ではないかと思われます。ローマがイギリスの名門リバプールに逆転したとき、ローマを仇敵とするミラノでは“ありがとう、リバプール。よくやってくれた”とのビラが貼り出されました。イタリアの各都市がフランスやスペインと組んで他の都市と争った中世以来の歴史を思い出させるものです」
 このエピソードは、おそらく1984年5月30日のヨーロッパ・チャンピオンズカップ決勝でリバプールが1−1の同点のあとPK戦(4−2)でASローマを破ったときのことだろう。
“ありがとう、リバプール”は本気であるにしろ、ユーモアであるにしろ、まことにイタリアらしいと思う。


78年アルゼンチンW杯 新しい流れ

 1978年と1982年のワールドカップでイタリア代表チームは、それまでとは違った新しい顔をのぞかせた。
 78年の代表は、74年からGKのゾフとベネティックやカウシオは残ったが、大半は若手に切り替わり、ジェンティーレ、シレア、カプリーニ、アントニョーニ、ザッカレリ、タルデリらが主力となった。彼らは、ファケッティやリーバの世代よりは体つきが柔らかく、プレーもまたソフトだった。その代表格がカプリーニ、そしてパオロ・ロッシ。カプリーニは78年のアルゼンチン大会に21歳で代表チームの左FBとして出場したが、相手のボールを奪ううまさ、自分の間合いに入れておいて、相手のバランスの崩れを待つ"ズルさ"などに生まれつきのサッカーのセンスが感じられた。
 アントニョーニはカプリーニより2歳ほど上だが、ミッドフィールドでのキープからオープンスペースへ展開する能力を、若いうちから持っていた。彼らに共通していることは、ボールを扱うフォームがそろって美しいことだった。

 イタリア人は、ドイツ人などに比べると男性は上背が低く、足が短い――などという人もあるが、その物腰が優美でジェスチャがサマになっている。例えば、レストランのウエイター。一流のホテルでも、もしあなたがヒラメのムニエルを注文するとしよう。ウエイターは、銀の皿に乗せた、ソールフィッシュを運び、サイドテーブルに置くと、その切り身の骨をとってくれる。ナイフとフォークを、まるで、コンサートの指揮棒のごとく、美しく持ち上げ、魚の縁(ふち)にあてがい、中央の骨にあてがい、さっさっさーと、骨を取りやがて、こちらの皿に切り身を置いてくれる。骨をはずし、切り身を持ち上げ、皿に移す。その一つひとつがまことに洗練されて美しい。一つひとつの動作をいかに美しく、いかにかっこよく見せるかを大切にする、イタリアの男達にとって、サッカーもまた、ボールを蹴るフォームも、止める形も、走る姿も、美しくて当然だろう。

 その美しく、サッカーセンスのある78年のワールドカップ・イタリア代表は、3位決定戦で敗れ4位となり、次の82年スペイン大会で優勝を勝ち取る。78年の時に注目され、ゴールデンボーイともてはやされたパオロ・ロッシが、1980年のリーグ八百長事件に、関連した疑いで、2年間の出場停止処分をうけ、82年ワールドカップ直前にようやく解除になったのを、エンツォ・ベアルツォット監督が、思い切った起用で本大会の1次リーグから出場させたのだった。得点するためには、いつ、どこへ走りこむか−を予想できる男がその能力を発揮すれば……。82年ワールドカップの2次リーグで、イタリアがアルゼンチンを倒し、ブラジルを破り、準決勝でポーランドを撃破氏、決勝で西ドイツに完勝したのは、ロッシと、前大会からの仲間達が、完全に燃焼したからだろう。カテナチオ以来の伝統的な守りのセンスの基礎に立って、攻撃の仕組みが多彩になり、しかもポイントにロッシという人を得たことで、イタリアのサッカーは、世界を制し、ナンバーワンのタイトルを得たのだった。

 1982年のワールドカップ優勝は、イタリアサッカーを活気づけた。82年シーズンから1チームの外国人枠を1人から2人に増やすことで、海外からの優秀プレーヤーも流入し、リーグ戦もまた賑やかとなった。84年のリーグ16チームに登録された外人プレーヤーは31人。ナポリにマラドーナ(アルゼンチン)ウディネーゼにジーコ(プラジル)ベローナにブリーゲル(西ドイツ)とエルケーア・ラルセン(デンマーク)サンドリアにT・フランシス(イングランド)とスーネス(スコットランド)トリノにシャハナー(オーストリア)とジュニオール(ブラジル)ユベントスにプラティニ(フランス)とボニエク(ポーランド)インテル・ミラノに、プレイディ(アイルランド)とK・H・ルムメニゲ(西ドイツ)フィオレンティーナにソクラテス(ブラジル)とパサレラ(アルゼンチン)とまさに、目もくらむような豪華さだった。

 1986年のワールドカップ・メキシコ大会で、イタリア代表は決勝ラウンド1回戦でフランスに敗れた。78年から3度のワールドの軸となってきたメンバーは、いささか年をとり、しかも、ロッシが戦列を離れたのが響いていたのだが、私にはそのことより、イタリアのリーグに籍をおいた世界各国のトップ・プレーヤーが活躍したことの方に86年大会の印象が強い。サッカーの歴史の上で、82年から86年までのイタリアほど、花やかな各国のスター選手を集めた所はないだろう。プリーゲルのようなたくましいプレーヤー、エルケーアのような強く速い選手、ジュニオールのような技術派、マラドーナのようなボールの天才。プラティニのようなオープンへの目――サッカーのあらゆる才能、あらゆる個性が集まり、人々を楽しませ、少年達に大きな影響を残したこの期間が、次の時代に、どのような形であらわれるのか――1990年のワールドカップ・イタリア大会には、あるいは何かが見られるのかも知れない。


(サッカーダイジェスト 1988年7月号)

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