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学徒出陣の中断期を乗り越え、クラマーを感嘆させた戦中派の代表 賀川太郎(下)

 ワールドカップ・ドイツ大会についてのリポートを先月号に掲載したため、『このくに と サッカー』の連載、賀川太郎は「上」「中」のあと、中休みが入って、今回が「下」になります。ジーコ前監督のあと、オシムが日本代表監督となって話題を呼んでいますが、オシムもジーコ同様にかねがね選手の自主的判断を強調しています。ただし彼は試合中に自主的判断力が鈍らないためにも、体力、走力の強化が大切ということから、「走るジェフ」と言われる独特の練習でチームを強化し、実績をつくりました。就任にあたって、日本代表には日本らしいプレーを要求しています。
 戦中、戦後の困難な時代に自らのプレーを切り開き、体力、走力をつけ、日本流を築いた先人の話は、今の恵まれた時代にも参考になるはずです。


46年前のペアプレーの思い出

「そうそう、あなたもご存知の兄の太郎が、日本サッカー殿堂の第2回掲額者に選ばれたんですよ」
「それはよかったねぇ。ミスター・イワタニも? よかった、よかった」
 7月6日、ドイツのババリア(バイエルン)州の山あいの町、ライト・イン・ヴィンケルのデットマール・クラマー宅での話だった。
 ワールドカップ・ドイツ大会が終わりに近づいたこの日、私はミュンヘン氏から知人の車で彼の自宅を訪ねていた。
 ミシュランの案内書『Deutschland 2006 HOTELS & RESTAURANTS』によると、「Reit im Winkl」は人口2610人、700メートルの高地にあり、保養地でウインタースポーツの施設(スキーのリフトなど)あり」と書かれている。
 ババリア・アルプスの向こう側がオーストリア。その山の景観がすばらしいが、スキー地だけあって冬の雪はすごいらしい。今年は雪が多く、5月まで向かいの山の斜面に残雪があったとか。ちょうど私が車で到着したときに郵便局の車が手紙を運んできた。何通かの一つがベッケンバウアーの結婚披露宴の招待状だった。
 大会中は観戦に出かけ、FIFAへのリポートを作成中というクラマーには、時間の余裕がないにもかかわらず、仕事場であり、膨大な図書資料と記念品の収蔵庫でもある自宅の落ち着いた空気の中で、話が次々に展開して、あっという間に予定の倍になってしまった。
 日本代表の敗戦についても、ひとしきり話し合ったあと、何かのはずみに古い話になり、そのときに兄の話が出た。
「グレート・プレーヤーだった」とぽつんと彼は言い、私に「あれはトキ……、トキなんといったかね」と問い返す。
「鴇田と右サイドでペアだったんですよ。田辺製薬でも、日本代表でも。クラマーさん、あなたも東京トリッククラブか田辺製薬の試合を見たのでしょう」
「2人のパスのやりとりがすばらしくてね。ボクはワンタッチのパスが好きなんだが、あの2人のパスはまさにそれだった。ぱっと止めて、ぱっと渡す。それをまた受けて、ぱっと出す。パスはああいうふうに――と当時の代表にもよく言ったのだが……」
「岩谷も鴇田も僕の中学の後輩だった。昨年秋にあなたが来日したときに、岩谷の家族と会ったでしょう」
「彼は高い技術を持っていた。指導者としてもすばらしい人だったね。そう、先ほどから話の出ているストライカーだが、あのカマモトを最初に私に引き合わせたのもイワタニだった」
(当時、日本サッカー協会の技術委員だった岩谷は、京都・山城高1年のカマモトを見て、体が震えるほどの感銘を受け、京都でのクラマーの講習会に出席させた。それがクラマーと釜本の出会いだった)
 同行した二人の若い新聞記者と一人の高校のコーチは、クラマーが46年前のことを克明に語るのを驚いていたが……。


陸上競技の長距離にも出場

 クラマーが兄・太郎のプレーを見たのは、1960年(昭和35年)だから、すでに38歳。田辺製薬の現役からも退いていた。持ち前の大きな動きはなくなっていたが、それでも鴇田正憲とのペアプレーで、現役の代表選手たちを相手に困惑させていた。
 そういうことができたのも、2人とも若いころにずば抜けた走力があったからだ。前々号までに紹介した60歳を超えて岡山県リーグ2部の公式戦に出ていたのも、その延長といえる。
 中学1、2年生のときは、どちらかといえば、それほどの努力家ではなく、素質の範囲で練習や学業をこなしていた。
 体づくりに目覚めたのは旧制中学3年のときで、夏の全国中等学校蹴球選手権大会(現・高校サッカー選手権)に出場し、炎天下の4日連戦の決勝で、埼玉師範に体力負けしたことからだろう。4年生のときから、兵庫県下の学校対抗10マイル(約16キロ)競争などにも、陸上競技部の応援(というより、主力がサッカー部)で出場するようになり、2年連続団体優勝している。
 また5年生のときは、秋の明治神宮競技大会・陸上競技の部の兵庫県予選に出場して、県2位となり、(実際には出場しなかったが)本大会の出場資格も得ていた。
 鴇田正憲については、この連載で紹介したとおり、最盛期には一周200メートルのドリブルで1メートル後ろから追走する学生選手を最後まで引き離していたエピソード(それも1回だけでなく、2回も行なった)を紹介したが、これは鴇田たちが2、3年生のときの練習に400メートル疾走が取り入れられ、それが彼の走力増加に大きなプラスとなっていた。
(日本代表が今年の合宿に300メートル走を取り入れていたが、こういうものは成長期から行なっていくところに効果が出るものと、私たちは考えていた)
 41年、あの太平洋戦争が始まろうという年に、神戸の中学校では技術だけでなく、走力アップに向けても、こうした取り組みが続けられていたのだった。
 神戸商業大学予科(現・神戸大学)では旧制高校的な雰囲気の中で、予科だけのチームをつくった。そこでまた、自分のゴール前から相手ゴール前まで動き回ることになった。
 ただし、大学でのサッカーは43年の“学徒出陣”によって中断、海軍に入り、45年夏の終戦までサッカーよりも零戦パイロットとしての訓練に明け暮れた。
 幸いなことに、無事に復員したあと大学に戻り、再びピッチに戻った。卒業後は田辺製薬でもプレーを続け、日本代表として第1、2回アジア大会や54年のワールドカップ予選・日韓戦に出場したことはすでに紹介したとおり。しかし、復員してすぐにプレーに復帰したとき、自分たちより年長のベルリン・オリンピック世代とともにプレーし、自分たちが兵役で失った2年半の中断期の重さを知る。
 そのハンディを克服するために、会社勤めと企業チームのサッカー選手という二つの顔を両立させつつ10年の年月をかけた。
 国際試合では、第1回アジア大会の3位が最高で、必ずしも成績が良かったとはいえないが、その努力で日本サッカーの伝統である、自ら工夫し、自ら鍛えて、技術を磨くという姿勢を次の世代につないだといえる。クラマーの「グレート・プレーヤー」というつぶやきは、彼にとっての何よりの勲章だったに違いない。


 私は兄・太郎をはじめとする戦中派のプレーヤーを思い起こすとき、彼らが戦中、戦後の用具難、食糧難の時期に、とにもかくにもサッカーを続けたこと、特に学徒出陣で大学の中断期というハンディを背負いながら、より高いプレーを目指していたのを思い出すたびに、新たな感慨にうたれる。
 青春期の彼らに3日でいいから、今の素晴らしいピッチでボールを破損の心配をしないで蹴ってもらうチャンスがあれば――と、時に思う。


★SOCCER COLUMN

戦災・少女を救った海軍士官たち
 1975年(昭和50年)8月の戦後30周年特集のS紙の紙面に、こんな見出しの記事と、命を救われた当時の少女と3人の元海軍士官の再会の写真が掲載された。
 45年の横浜大空襲のとき、爆風で飛び散ったガラスの破片が全身に突き刺さり、血まみれの姿で少女が海辺に倒れていた。助けを呼ぶ母親の声に駆け寄った救護班の人たちは一目見て、これはだめだとほかの負傷者の方へ行ってしまった。
 そこへ通りかかった4人の海軍士官が戸板を探し、少女を寝かせ、救護所からピンセットとヨードチンキを取ってきて、ガラスの破片を一つ一つ取り除き、ヨードチンキを塗り、瀕死の少女を救護所へ運び、名も告げずに立ち去ったのだった。
 一命をとりとめ、成人した少女は何度となく恩人たちを探し、30年を経て、ようやく14期海軍予備学生だと分かり、そこから筑波海軍航空隊にいた賀川太郎、杉本遼一、三宅秀己(もう一人はすでに他界)と知れた。戦闘機乗りだった3人は、休日を利用して横浜まで遊びにきていて、空襲に遭い、急いで帰隊する途中に重傷を負った少女を見たのだった。
 夢中でガラスの破片を抜いたが、命を救えたかどうか自信はなかったのに――すでにそのとき50歳を超えていたかつてのパイロットたちは、女性の生命力の強さに驚きながら、燃えさかる横浜の街を背景に演じた自分たちの行為に、感慨ひとしおだった。


「なぜシュートへもっていかない」
 兄・太郎とのサッカー談義は数限りなくあるが、最も印象深い一つを――。
 私が神戸一中の5年生のとき、1941年(昭和16年)の明治神宮大会で、朝鮮地方代表の普成中学と2−2の同点で双方1位となって、まがりなりにも全国1位で帰宅したとき、太郎が最初に言ったのは「あの最後のチャンスのときに、おまえが左からクロスをあげたやろ。一人、縦に外したあと、中へ持ち込んでシュートしたらよかったのに――。おまえが一番シュートがうまいのだから」。
「ご苦労さん」とも言わず、いきなり「シュートした方がよかったのに」とは、いかにも太郎らしいが、今でも私は日本代表などのもっと高度なレベルでそういった場面を見るたびに、この出来事を思い出す。
「思い切ってシュートしておかないと、一生悔やむことになる」と。


(月刊グラン2006年9月号 No.150)

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