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【番外編】走るサッカーを説く―― オシム監督

 イビチャ・オシムという優れた監督の下で、日本代表が動き出した。オシム・イズムと日本の将来を考えて、番外編としました。


阿部、斉藤とオシム監督

 オシム監督に初めて会ったのは、3年前に阿部勇樹選手のインタビューでジェフ市原(当時)のクラブハウスを訪れたとき。
 当時、社長だった岡健太郎さんが、この継ぎ、ぜひ監督を取材に来てほしいと、練習からあがってきたオシム監督を呼び止めて紹介してくれたのだった。
「あなたが1964年の東京オリンピックで活躍したのを知ってますよ。大阪トーナメントで日本代表から点を取ったでしょう」と言うと、ニヤリと笑って、「うん。私は背が高かったから、ヘディングで取ったと思う」と答えた。小雨の中での練習のあとだったから、短い会話だったが、古い話を一つ、二つしたあと、次の機会ということになったが、監督はふと「今の選手は金のためにプレーする」と言った。
 このときの阿部選手とのインタビューで、彼のオシムへの傾倒を知った。この選手は若いうちからプレースキックがうまいので評判だったが、私は日本人には珍しく、CKをファーポスト側の味方にも合わせられるキックの“長さ”“強さ”に注目していた。その彼を若いうちにキャプテンに指名したのが、オシム監督――。人間性を考えてのことだろうが、長い距離のコントロールキッカーを選んだところが、私には面白かった。81年生まれの阿部は今、25歳。オシムの下での3年間を経て、いよいよ真の成長期に入っている。試合中でも、オシムの声がなくても、“声が聞こえる”というほどになっている。

 オシムとの初対面、阿部選手とのインタビュー以来、ジェフと監督への関心は消えなかったが、その中で私はオシムの下で一人のDFが成長するのを驚きながら眺めたものだ。
 斎藤大輔選手――74年11月19日生まれだから、今年32歳。ガンバ大阪に入り、2000年からセレッソ大阪で3年間プレーした。身長182センチ。低くはないが、現代のDFとして決して大きい方ではない。プレーは堅実、目立った特長はないが、よく粘る、私の好きな選手だった。
 02年からジェフに移り、やがてオシムの下で働くようになって、出所進退がよくなった。同世代の仲間がぼつぼつレギュラーから消え始める時期だが、斎藤選手は技術的なミスも少なくなり、時には大胆な攻め上がりを見せ、今年も元気だ。
 彼のように、若いうちに“切れ味”や“ロングシュート”あるいは“ドリブル突破”といった目立った特長の少ないプレーヤーがここまで伸びたところに、オシムの不思議さがある。


走れ、走れの裏には

 オシムからの選手への注文は、まず“走る”ことだ。「90分間走れないものがいる」とは、日本代表の試合後の記者会見の席上でも口にする言葉である。
 かつての旧ユーゴスラビア代表らしく、選手時代のオシムはボールテクニックに優れ、1968年のヨーロッパ選手権では攻撃の組み立て役として高い評価を受けた。英国の記者たちの当時の表現は「スライド・ルール・パス」。日本流にいえば“定規で測ったようなパス”“寸分の狂いもないパス”ということになるだろう。
 そうしたテクニシャンであった彼が、あえて今、日本で“走る”を打ち出しているのは、一つはかつて自分たちの特色であった上手でスローなキープだけでは、通用しなくなっていることもあるだろう。そしてまた、日本代表ということになれば、体格――体の強さや大きさで劣ることの多い日本選手は、まず相手より余計に動くことが必要と考えたのだろう。
 日本代表の歴史は30年に初めて日本サッカー協会(JFA)が“選抜チーム”を組んだときから。よく走って、組織プレーで相手に勝つ――がテーマとなってきた。体の大きな中華民国(現・中国)の選手を相手にした努力が、やがて36年のベルリン・オリンピックでの対スウェーデン戦での逆転勝ちにつながった。


日本人の特色を生かすために

 1998年も同じ特色のチームがワールドカップ・フランス大会に出場した。日本の速さと組織プレーはフランス人には好評だったが、1勝もできなかった。
 2002年の日韓大会では1次リーグを突破して16強に残った。しかし、06年はまたまた1勝もできなかった。
 今年6月のドイツで、私たちはヨーロッパでヨーロッパ勢同士のタイトルマッチの激しさをあらためて知った。
 彼らに対抗するために、ある程度の体格のプレーヤーが必要――とは昔からの常識だが、そうした反省を含めても、なおオシムは“まず走る”ことを優先順位のトップに置いている。それは日本人の勤勉、技術、機敏性を生かすために必要だからである。
 オシム監督の“走る”で大切なのは選手たちに自主判断を求めること。それを「賢くやれ」と言う。
 この点は前任のジーコが求めた選手の自主性、自主判断と同じだが、オシムはそれを練習中に、今の動きは正しかったかどうかをプレーを止め、選手に問いかけ、自分で判断するようにさせる。
 ジーコという非凡のプレーヤーだった監督が“選手の自主性”を掲げて、アジアでは優勝し、ワールドカップの予選を突破した。しかし、4年間で代表の個々のテクニック、特にポジションプレーがどれだけ伸びたかという点では、心もとないものだった。
 オシムを監督に迎えて大切なことは、オシムが代表選手に何を要求したかが所属チームのコーチたちにも伝わり、選手たちがそれを自分で反復練習して上達することである。もちろん、走ることの強化によって、日本の中の大型プレーヤーの能力アップが進むことも、重大なのはいうまでもない。
 今、『オシムの言葉』という本が人気になっている。よく書き込まれたいい本だから、サッカーファンには一読をおすすめしたいが、“言葉”だけではサッカーは勝てないのは、衆知のこと――。
 オシムによって啓発された代表選手がどれだけ自らを鍛え、伸ばしていくかをサポーターが見つめることが、2010年の代表の力を決めることになるはずだ。


イビチャ・オシム(Ivica Osim)略歴

1941年    5月6日、サラエボ(現・ボスニア・ヘルツェゴビナ)生まれ。
1954年    サラエボのゼレズニチャル・クラブに入る。
1959〜68年 同クラブのトップチームでプレー(500試合以上)。
1964年    東京オリンピック・旧ユーゴスラビア代表、6位
1968年    欧州選手権旧ユーゴ代表、準優勝(準決勝で66年ワールドカップ優勝のイングランドを破る)。
        旧ユーゴ代表として16試合出場8得点。
1969年    オランダの3部リーグ、ツヴォルフェ・ボーイズと契約したが、後に解消。
        この後、フランスに移り、ストラスブール、セダン、バレンシネスなどでプレー。
        78年まで現役として活躍。
1978〜86年 ゼレズニチャル監督。旧ユーゴリーグ準優勝1回。
1982〜84年 旧ユーゴ・オリンピック代表コーチ。84年ロサンゼルス大会銅メダル。
1986〜92年 旧ユーゴ代表チーム監督。
         90年ワールドカップ・イタリア大会ベスト8。
         92年欧州選手権は予選を突破したが、内戦のためスウェーデン大会には出場できず。
1991〜92年 パルチザン・ベオグラード監督。旧ユーゴカップ優勝1回。
1992〜94年 ギリシャのパナシナイコス監督。ギリシャカップ優勝1回。
1994〜02年 オーストリアのシュトルム・グラーツ監督。リーグ優勝2回、カップ優勝3回、スーパーカップ優勝3回。
03〜06年  ジェフユナイテッド千葉監督。リーグ戦106試合49勝35分け22敗、Jリーグカップ優勝1回(05年)。


★SOCCER COLUMN

半世紀前にアジアでコーチ
 私が旧ユーゴスラビアのサッカー人と初めて言葉を交わしたのは、1958年の第3回アジア大会(東京)のインドネシア代表チームのボガチニクコーチ。
 50年近く前のこと、ユーゴ人がアジアへサッカーの指導に来ているということが、私たちには不思議だったが、30年の第1回ワールドカップに、はるばる大西洋をわたって参加(欧州からの参加国は4ヶ国だけ)した栄誉を持つサッカー国、ユーゴスラビアでは、そのころすでに多くの選手やコーチが海外へ流出し、働いていたのだった。
 日本代表がユーゴ代表と初めてプレーしたのは、61年11月28日、東京・国立競技場で――。62年のワールドカップ・チリ大会の予選でユーゴはアジアの代表の韓国と試合をすることになり、ソウルでのアウェー戦の後、東京で日本と親善試合をしたのだった。このユーゴ代表はチリ大会でベスト4に進んだ。東京でもスコアは1−0ながら、高い技術を見せて、日本の指導者たちを感嘆させた。


64年東京オリンピックとオシム選手
 1960年のオリンピック・ローマ大会で金メダルを獲得した旧ユーゴスラビアは、64年の東京大会でも優勝候補の一つに挙げられていた。1次リーグB組だった。

 *10月13日 ○3−1 モロッコ
 *10月15日 ●5−0 ハンガリー
          1勝1敗(北朝鮮が棄権したため3チームによるリーグ戦)で準々決勝へ。
 *10月18日 ●0−1ドイツ
          準々決勝の敗者4チームが、大阪トーナメント(5、6位決定戦)へ。
 *10月20日 ○6−1 日本
 *10月22日 ●0−3 ルーマニア

 オシム選手はユーゴ代表のFW(CF)で5試合に出場。対ハンガリー(2得点)対日本(2得点)で合計4ゴールを記録している。
 大阪トーナメントの日本戦を観戦した田辺五兵衛氏(故人、元JFA副会長)は、「東京でドイツに敗れたが、ユーゴは紛れもない4強の一つ。これに対し、日本がどれくらい戦えるか期待したが、立ち上がり2分にCKからゴールを奪われ、5分には左からクロスで2点目を取られ、大きな痛手となった。長身オシムを中央に置く果敢な急攻法は、その見事なフットワークの冴えとともに差を広げた」とリポートしている。


(月刊グラン2006年10月号 No.151)

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