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121年前、日本にサッカーを初めて紹介し東京高師−筑波大に根付かせた大功労者 坪井玄道

明治18年に『戸外遊戯法』を出版

 去る9月10日に行なわれた日本サッカー殿堂の掲額式で、新たに7人の功労者が殿堂入りし、その中に日本サッカーの始祖ともいうべき坪井玄道先生(1852〜1922年)の名があった。
 坪井さんはいまから112年前の1885年(明治18年)に『戸外遊戯法 一名戸外運動法』という書物を出版して、その中で始めて「フートボール」を紹介した。日本語で記された最初のサッカー解説書の著者であり、また、のちに東京高等師範学校(現・筑波大)教授となり、蹴球部長を務め、日本でサッカーの普及、発展の源流をつくった大先達。
 私自身が坪井さんの名を知ったのは、大戦後しばらくして。故田辺五兵衛さん(1908〜1972年)に『蹴球ト自転車』という小冊子のコピーをもらったときだった。表紙の「蹴鞠」のところに「けまり」ではなく「フートボール」とルビがあり、「内外遊戯全書第拾五編 東京博文館蔵版」と記され、著者は法科大学、三井末彦、発行日は1900年11月29日とあった。
「ずいぶん古いものですね」と言う私に、田辺さんは「この本よりも15年も前に、坪井玄道さんが『戸外遊戯法』という本の中でフートボールのことを書いている。それがおそらく日本のサッカーでは一番古いものだ」と言った。


英語を学び体操伝習所へ

 坪井さんが生まれたのは1852年(嘉永5年)1月。その翌年の6月にアメリカのペリー艦隊が浦賀に来航した、いわゆる黒船来航があり、幕末の大変動期だった。下総国、現在の千葉県市川市の農家の次男で、幼名は仁助といった。14歳のときに医学を志して江戸へ出たというから、少年期から利発でしっかりものだったのだろう。
 1868年(慶応2年)、「開成所」に入り、蘭学でなく英学を修める。在学中に明治維新となり、新政府のもとに開成所は開成学校として続く。1871年(明治4年)に卒業し、大学南校(のちの東大)に勤め、名を改め、翌年7月には新設の高等師範学校勤務となる。20歳のときだった。
 ここで英語力を生かしてアメリカ人教師、スコットの通訳を3年間務める。その後、宮城英語学校の教師となったが、1878年(同11年)に新たに東京で開設された体操伝習所に呼び戻され、アメリカ人の体操教師、リーランドの通訳を務めた。


遊戯(スポーツ)は大切なもの

 この体操伝習所という新しい職場で、体操教師の通訳という仕事にかかわったことが、坪井さんの一生の大きな転機となる。
 通訳といっても、実技を伴う体操のこと、学生に教えるためには、自らも体の動きなどを知っていなければならず、授業の前にはリーランドと実技の予習を繰り返した。そうした経験から2年後にリーランドが帰国したあとには、自らが先生となって体操教師の育成にあたった。
 体操伝習所はのちに廃止され、高等師範学校に吸収され、坪井さんもまた高師の助教授となるのだが、伝習所時代の1885年(明治18年)に田中盛業と共編による前述の『戸外遊戯法』を刊行し、また伝習所の教科にフートボール他6種の戸外遊戯(スポーツ)も重要との考えの表れである。
 東京高等師範学校は教師の育成機関である師範学校の一段階上のものとして、1886年(同19年)に設立され、多くの人材を送り出したが、スポーツの指導に力が入るようになったのは、講道館柔道の嘉納治五郎が校長となった1893年(同26年)9月から。3年後に生まれた運動会のうち、坪井さんはフートボール部長となった。
 高等師範が日本サッカーの推進力となる形がこのときに生まれたといってよい。20世紀に入って、坪井さんは1年間のヨーロッパ留学へ。1863年(文久3年)にイングランドでFA(フットボール・アソシエーション)が設立され、ルールが統一されて、手を使わないフットボール(サッカー)がヨーロッパや北米、南米へ広まり始めたころだった。
 坪井さんにとってはリーランドから習った知識の上に、ヨーロッパでの見聞は新しい目を開くことになる。1902年(明治35年)にアメリカ経由で帰国したとき、イギリスで入手したピンポン(卓球)用具一式も持ち帰った。体育指導者として新しいものへの注目も欠かさない、何より手軽で、また楽しみつつ体を動かす卓球のよさにひかれたのだろう。
 帰国した坪井さんとともに高師のフットボール熱はいよいよ高まり、1903年(同36年)、フートボール部委員によって『アッソシエーションフットボール』が出版の運びとなった。坪井さんは、その序文で次のように述べた。


サッカーの有益を説く序文

 余は先年、欧米諸国を巡遊せしが、世に多かる遊戯の中にて甚だ盛んなりしものは「フットボールゲーム」にして、なかんずく、英米においては非常に盛んに行わるると見たりき、由来、この遊戯は身体的方面より考ぶるも、また、精神上に及ぼす方面より論ずるも、誠に有益なる興味ある遊戯にして、特に他の遊戯に比して、その人数を多く要し、しかも、大いに一致共同の行動の要するを以って、これらの精神を養成することの多きは、即ち、これ、この遊戯の特色というべきか。且つや最も経済的なる遊戯なるを以って、余は、この「フットボール」の我国に盛大に行われんことを希望して止まざるなり。
《中略》
 わが「フットボール」部委員が「アッソシエーションフットボール」なる書を編し世に公にせんとす。「フットボール」必要の声、各地に起これる今日に当たり、斯道の発達に益するところ、けだし少ならざるべし。
 殊に「アッソシエーション」式と「ラグビー」式とを比較するに、むしろ前者の、今日、わが国に行うに適せるか如きを以って、さらに、余は本書の世に出でたるを喜ぶものなり。よっていささかの所感を述べ、以て序となす。

 英語を学び、外人指導者の通訳として体操の実技指導の経験を積み、語学力を生かして海外の知識を集めて、スポーツ(遊戯)の楽しさを学校体育に取り入れることを考えた坪井玄道さんは、学校体育指導者の大功労者として、いまも筑波大学に銅像が置かれている。その筑波大のサッカー界への貢献の大きさを見るとき、その最初のステップを刻んだ坪井さんへの思いを新たにする。


坪井玄道・略歴

1852年(嘉永5年)1月9日、下総国の豪農、坪井甚助の次男として生まれる。幼名は仁助。
1866年(慶応2年)医学を学ぶために江戸へ。開成所の岡保義について英語を学ぶ(68年、開成所は明治新政府によって開成学校となる)。
1871年(明治4年)開成学校卒業、大学南校(のちに東京大学となる)に勤務。
           名を仁助から光次に、さらに玄道と改める。
1872年(明治5年)新設の師範学校(のちの高等師範学校、現・筑波大)勤務。
1875年(明治8年)6月、宮城英語学校の教師となる。
1878年(明治11年)体操伝習所の開校にあたり、アメリカ人体操教師、リーランドの通訳となる(宮城から東京へ)。
1881年(明治14年)リーランドが帰国。坪井が仕事を引き継ぐ。
1882年(明治15年)『新選体操考』を体操伝習所から刊行。
1885年(明治18年)4月、田中盛業と共編で『戸外遊戯法 一名戸外運動法』を刊行。
1886年(明治19年)4月、体操伝習所は高等師範学校に吸収。坪井は同校助教授に。
1896年(明治29年)嘉納治五郎校長によって高師内に運動会が設立。柔道、撃剣および銃槍、弓技、器械体操、ローンテニス、ベースボール、フートボール(フットボール)、自転車の8運動部を設けた。
           この2年後に蹴球部と変わるのは1904年ごろらしい。
1900年(明治33年)6月、体操研究のため、文部省から1年間の海外留学(フランス、ドイツ、イギリス)を命じられ、翌年2月、出発。
1902年(明治35年)6月、アメリカ経由で帰国。イギリスからピンポン用具一式を持ち帰る。
1903年(明治36年)東京高師フートボール部委員による『アッソシエーションフットボール』(鐘美堂)出版。坪井が序文を記す。
1909年(明治42年)4月、東京高等師範、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)教授を退職。高師体操科の講師となる。
1922年(大正11年)4月、東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育大)の名誉校長となる。
           11月2日、死去。法名「堅行院釋玄道居士」、墓所は文京区向丘2丁目の真浄寺。


★SOCCER COLUMN

ワールドカップに際して歴史を振り返る
 2006年のFIFAワールドカップの取材のためにドイツに出かけたとき、書店でキッカー誌の別冊『KULT UM DEN BALL=AUS DEN SPUREN DES FUSSBALLS=』(『ボールを巡る文化=サッカーのあゆみ』)を見つけた。
 今のサッカー(フットボール、ドイツ語ではフスバル)より以前にあった世界各地のフットボール、中国や日本の蹴鞠、メキシコのトラチトリ、東南アジアのセパタクロー、中世イタリア、フィレンツェのカルチョ、もっと遠い昔の古代エジプトのボール遊びにも、ギリシャのそれにも――。そしてイングランドのモブ・フットボールなどに半分の60ページの誌面を割き、やがて1863年のロンドンのフリーメーソンズ・タバーンでのFA(フットボール・アソシエーション)創立に至り、そこから現代までを残り60ページで記している。ドイツ語は不勉強で、すばやく読めないのは残念だが、写真、図版ともにしゃれていて、やはりサッカー大国は、こうした歴史への目配りもしっかりしていると改めて感じた。
 日本サッカー協会(JFA)がサッカー殿堂を設け、先人たちの努力の跡を偲ぶようになったのは、自らの歴史を見つめるという点でも、いい考え方だった。
 オシム監督は「日本流サッカー」への着意を強調しているが、この点でも自分たちの歩みを振り返り、“今”への確かな視点を持つことが大切だろう。
 2002年ワールドカップを機に、創設されたミュージアムのさらなる充実を祈りたい。


(月刊グラン2006年11月号 No.152)

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