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大日本蹴球協会(JFA)設立、全日本選手権開催。大正年間に組織作りを成功させた漢学者・内野台嶺

坪井玄道の直弟子

 坪井玄道(1852〜1922年)は、その著『戸外遊戯法』(1885年刊)のなかで初めて、フートボール(フットボール)を紹介し、のちに東京高等師範(高師)フートボール部長として、多くのサッカー人の教育者を世に送った日本サッカーの始祖――と誰もが認める。内野台嶺(1884〜1953年)は、その弟子の一人で、関東蹴球大会の開催、東京蹴球団設立、そして大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)の創設など、現代につながる組織づくりの功労者だった。

 坪井さんは幕末に“英学”を学び、アメリカ人の体操の先生の通訳兼助手としてスポーツへの傾倒を深めたが、内野さんは台嶺の名が示すとおり、曹洞宗大乗寺というお寺の住職でもあり、高師での専攻は漢文――。『孟子新譯』(弘道館)をはじめとする漢籍に関する著書が多く、この道の大家でもあったという点が私には興味深い。
 筑波大学に保管されている内野台嶺年譜などによると、内野さんは神奈川の生まれで、14歳のころに生家に近い大乗寺の養子となり、城田作三の名を内野台嶺に変えた。
 東京の私立郁文館中学校を卒業して、高師に入ったのが1905年(明治38年)。あの日露戦争の2年目。入学した4月は陸軍がすでに奉天会戦でロシア軍を破って3月10日に奉天を占領、海軍はバルチック艦隊を迎え撃とうとしていた。
 高師ではすでにフートボール部があり、生徒たちの労作『アッソシエーションフットボール』が出版されていた。上級生には後に名古屋での指導に力のあった堀桑吉がいた。
 当時の校友会誌によると、この年12月に行なわれた対横浜外国人クラブとの試合のメンバーにHB内野の名があるから、このころから対外試合のレギュラーになっていたようだ。
 予科、本科併せて4年間をサッカーと勉強に打ち込んで、卒業し、と島師範学校の教諭となる。ここで早速、サッカー部をつくり、指導した。
 豊島師範は青山師範とともに、後に東京の中等学校サッカー界の勢力となる(私が神戸一中2年のとき、全国大会で対戦している)のだが、2年後、再び高師に戻り、専攻科で漢文の勉強をして、1913年(大正2年)に卒業、母校で国語、漢文科の講師となり、教授への道を進む。


強化のためにOBも団結

 明治の末期、1912年(明治45年)、日本は初めてオリンピック(ストックホルム大会)に参加した。1913年(大正2年)に第1回極東選手権大会という総合スポーツ大会がフィリピン側から提唱され、東アジアの中華民国、日本との三国による大会が、まずマニラで開かれた。第1、2回は参加を尻込みしていた日本サッカーも1917年(同6年)、第3回大会が東京・芝浦で開催されるとあっては、見送るわけにはいかず、初めて国際舞台に足を踏み入れる。
 大会参加の日本代表を高師サッカー部(OBも含めて)の選手で占めたのは、当時のサッカー界から見れば、特に不思議はないが、中華民国に0−5、フィリピンに2−15と大敗した。
 大敗はしても、初の国際大会というのが、サッカー人にも社会にも大きな刺激となって、翌1918年(同7年)に関東、中京、関西の3つの地域で、それぞれ別々に大会が行なわれる。このうち関西の大阪・豊中での大会が、今の全国高校選手権の前身となるのだが、関東大会が東京蹴球団と高師の共催で始まったところにも注目したい。
 その関東大会の中心となったのが内野さんだった。
 高師のメンバーだけでは中華民国やフィリピンに勝てないと考えた内野さんは、1917年9月に青山師範、豊島師範、そして高師のOBを集めて蹴球人の団結を説き、参加者の賛同を得て「東京蹴球団」という各校を一本にした強いOBクラブを結成した。
 そして翌年2月に東京蹴球団主催による第1回関東蹴球大会を高師グラウンドで開催した。朝日新聞社が後援し、1933年(昭和8年)の第15回大会まで続いた。
 関東、中京、関西の3地域で同時に大会が始まった波紋は、ロンドンからやってきた。


英国からのシルバーカップ

 FA(イングランドのフットボール・アソシエーション)が日本のFAにシルバーカップを寄贈するというのである。内山さんは高師の嘉納治五郎校長からこの話を聞き、「このカップを受け入れるためにも至急、日本の協会をつくれ」との指示を受けた。
『天皇杯65年史』に掲載されている「協会設立の顛末」という内野さん自身の記述では、関東大会に来場した英国のグリーン大使から、英国に日本の模様が伝わったのが理由であるらしいことや、協会設立までの苦労の一端がうかがわれる。
 難航した協会会長問題も、今村次吉さんに決まり、1921年(大正10年)9月に大日本蹴球協会が設立された。
 東京蹴球団は1921年6月の第5回極東大会(上海)で中華民国に0−4、フィリピンに1−3で敗れた。勝てはしないが、次第に差は縮むのを感じた。協会設立の2ヶ月後、11月26、27日に東京・日比谷公園で第1回全日本選手権大会が開催され、東京蹴球団(関東)が御影師範(関西)を破って初のタイトルを取り、FA寄贈のシルバーカップがエリオット駐日英国大使から山田午郎主将に渡された。
 協会設立以前に東京蹴球団というOBクラブをつくったことから、関東大会の開催があり、それが引き金となってFAのシルバーカップ寄贈−JFAの設立−全日本選手権開催と、ドミノ倒しさながらに日本サッカー界の重要な組織が次々につくられていったのが、大正期の特徴だが、そのなかに常に内野台嶺の姿があった。


太陽のなかに3本足のカラス

 内野さんは1923年(大正12年)から2年間、漢文の研修のために中華民国に留学し、いよいよ造詣を深める。
 高師だけでなく他の師範のOBにも呼びかけて強チームをつくるという考えは、JFAの強化策に受け継がれ、1930年(昭和5年)の東京での第9回極東大会で、初めて東西の大学リーグから選抜された日本代表は、フィリピンに勝ち、中華民国と引き分け、初めて極東の1位となった。
 JFA創立からわずか9年。この6年後の1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックで、日本代表が優勝候補のスウェーデンに逆転勝ちする。JFA誕生から15年という短い年月を見れば、大正年間の組織づくりの意義をあらためて知ることになる。
 第9回極東大会の勝利で力を得たJFAは、1931年(昭和6年)にシンボルマークを制定し、また広報の充実を図った。今も親しまれている3本足のカラスのマークは、彫刻家・日奈子実三の作だが、内野さんたちの発案のようだ。
『淮南子(えなんじ)』の「日中に駿烏あり」をはじめ、いくつかの漢籍にあるとおり、中国では古来から太陽のなかにカラスがいると信じられていて、その3本足のカラスを図案にと考えたという。
 漢文の大家は組織だけでなく、奇妙な形ながら気宇壮大で、誰にでも覚えられるJFAのシンボルマークをも残した。


内野台嶺・略歴

1884年(明治17年)4月29日、神奈川県に生まれる。
1898年(明治31年)5月、生家に近い大乗寺住職、内野眠嶺の養子となり、城田作三を内野台嶺と改名。
1905年(明治38年)4月、東京高等師範学校(現・筑波大)予科入学。
1909年(明治42年)3月、同校本科国語漢文部卒業。
         4月、東京府豊島師範学校(現・東京学芸大)教諭。
1911年(明治44年)4月、東京高等師範学校専攻科入学。
1913年(大正2年)3月、同校修身漢文部卒業。
          4月、同校漢文科講師。
1920年(大正9年)同校教授。
1932年(昭和7年)東京文理科大学(現・筑波大)教授兼東京高等師範学校教授。
1940年(昭和15年)3月、東京文理科大学漢文学研究主任。
1946年(昭和21年)同校教授を退任。
1947年(昭和22年)駒澤大学教授。
1953年(昭和28年)12月24日死去、69歳。


★SOCCER COLUMN

“登山の藤木久三さん”と関東大会
 関東蹴球大会は1918年(大正7年)から、太平洋戦争で中断するまで続き、関東の中学生、師範学校生にとっては目標となるビッグな大会だった。朝日新聞社は第1回から後援し、戦前は週刊の『アサヒ・スポーツ』でめお大きな扱いだった。
 大会創設時に、朝日の事業部に藤木久三さん(故人)がいて、ずいぶん力になり、立派な後援社告を掲載してくれたという。
 藤木さんは登山界の先駆者で、ロッククライミングでも名高く、名著『岩登り術』の著者であり、また神戸北東の六甲山にある岩尾根をロックガーデンと命名したことでも知られている。
 芦屋川の支流、高座の滝の岩肌に同氏の記念レリーフがあり、ハイカーに親しまれている。
 産経新聞で山の記事も書いていた私から見れば、この大先輩はまぶしいほどの存在だった。その藤木さんにサッカーがお世話になっていたとは――。


協会設立の顛末
 大正9年3月、東京高師の嘉納治五郎校長より「早速出頭せよ」との書面、先生から「英国蹴球協会からシルバーカップを寄贈してきたが、これを受け入れる協会が日本にはない。この際、ぜひ設立せよ」と申し渡された。
(中略)
 協会設立に関して英国大使館のヘーグ氏からイングランド協会の事情やFAカップの規約などを教わったが、会長を得る団になると困難に出合った。蜂須賀侯爵、鍋島侯爵、後藤男爵、大谷光明氏、嘉納治五郎先生、岸清一博士といった具合に随分と所々方々にお願いに上がったが、何れも止むを得ぬ御事情で承諾願えなかった。とうとう体育協会の援助を仰ぎ、今の会長のご就任を得て、ここ大正10年9月10日、目出度くその成立を見るに到った。
(後略)

(『天皇杯65年史』より)


(月刊グラン2006年12月号 No.153)

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