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メキシコ・オリンピックの8ヶ月前に釜本邦茂の劇的開花を助けた西独の名コーチ ユップ・デアバル

 この連載のここ2回は坪井玄道先生、内野台嶺先生といった、日本サッカーの文字通りの草分けのころの先達を紹介しました。今回は少し趣を変えて、ユップ・デアバルさん――。
 1980年代の西ドイツ代表チームの監督として知られている人ですが、38年前に日本がメキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得したときの陰の功労者です。この大会の得点王となり、日本の3位獲得のための重要なゴールを次々と決めた釜本邦茂(現・日本サッカー協会副会長)は、この年1〜3月中旬までの西ドイツ留学で急成長し、素質を一気に開花させました。その2ヶ月余、彼を個人指導したのがデアバルコーチです。


釜本邦茂への期待

 1968年(昭和43年)1月18日、私は西ドイツへ帰るデットマール・クラマーを見送るため、羽田空港にいた。前の年、67年秋のアジア予選第1地区で日本は韓国をはじめとする5ヶ国を抑えて、メキシコ・オリンピックの本番への出場権を得た。その本番に備え、すでに日本代表の強化試合は始まっていた。12月にソ連の中央陸軍クラブ(通称・チェスカ)とチェコスロバキアのデュクラ・プラハを招いて、3ヶ国対抗戦を行ない、翌年1月17日には西ドイツのアマチュア選抜チームと対戦した。
 この東京・国立での西ドイツ戦から、日本サッカーリーグ(JSL)もオフに入り、日本代表も3月のメキシコ遠征までしばらく試合はなかった。その中断期に、私たちはもう一つの強化策をもくろんでいた。それは、釜本邦茂を西ドイツへ留学させることだった。そして、釜本自身はすでに、この日、西ドイツのアマチュア選抜と同じ機で旅立っていた。
 釜本を西ドイツへ単身、留学させ、ステップアップの助けをしようとの考えは、66年7月、彼がヤンマー・ディーゼルに入社したときから決まっていた。
 65年からスタートした企業チームの全国リーグで、ヤンマーは最下位だった。その弱いチームに釜本を加えることは、受け入れる側にも、入ってくる本人にも、相当な決意が必要だった。ヤンマー側はブラジルからの選手導入も含めてのチーム補強策と、釜本自身のステップアップに役立つこととしてにしドイツ留学を企画した。
 日本の恩師でもあり、釜本の素材の大きさを最もよく知るクラマーが賛成し、受け入れ先を選び、西ドイツ西南部、フランスとの国境に近いザールラント州の州都、ザールブリュッケン市がよいということになった。同州のサッカー協会のヘルマン・ノイバーガー会長がOKし、州協会の主任トレーナー、ユップ・デアバルといういいコーチが指導してくれることになった。


クラマーの信頼と自信

 幸いなことに、オリンピック予選の後も、釜本の能力は伸びていた。高いボールのヘディングでは、チャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)で西欧のトッププロと戦う東欧の名門クラブ、デュクラ・プラハの長身DFを相手にも負けなくなっていた。自分のボールへの見切りに自信を持っていた、西ドイツのアマチュア選抜とのヘッドでの競り合いは、すべて取っていた。
 しかし、不満もあった。ボールを受け、反転し、シュートへ持っていく一連の動きはまだまだだった。疲れたときに、それがいっそうひどくなって、オリンピック予選最後の対南ベトナム戦では、俊敏なベトナムDFを相手に苦しんだ。
 そういうことが、2ヶ月の留学で解決するのだろうが――。
 私は新聞社の腕章をつけて、ゲートを通り、飛行機のタラップまでクラマーと並んで歩きながら、それを聞いた。
 クラマーは言った。
「ボールを止めて反転し、シュートへ持っていく動作が一挙動になるかって? うん、留学から帰ってきたときの彼を見てほしい」。クラマーは自分が推したデアバルはいいコーチで、ザールブリュッケンの環境はとてもいい――と自信たっぷりに私に答えた。


劇的変化に誰もが驚く

 その2ヶ月余の成果は驚くべきものだった。1968年(昭和43年)3月20日、メキシコ市でメキシコ代表と試合をしたとき、高度順応のできていない日本代表チームは0−4で敗れた。2400メートルの高地でのプレーを経験し、その対策を練るための試合ではあったが、西ドイツから合流した釜本の体づくりはほかの日本選手に比べると格段によかったと、当時の長沼健監督は言っている。
 そして、メキシコからオーストラリアへ転戦したとき、同地のサッカー専門誌のアンドレ・ディトレ記者は「日本にイングランドのハースト(66年ワールドカップ決勝でハットトリックを達成した)や、ジョージ・ベスト(マンチェスター・ユナイテッドのスター)に匹敵するストライカーが現れた――」と釜本を評したほどだ。
 また、68年4月14日のJSL第1節、ヤンマー対名古屋相互銀行で、私は釜本が左からのボールを受けて反転し、左足20メートルのシュートを決めるのを見た。まさに電光石火だった。
 新しい釜本は5月に“天下”のアーセナルと日本代表の試合で、右からの渡辺正の早いクロスに合わせて、ニアにダイビングヘッドしてゴールを挙げ、トップを驚かせた。また、夏のヨーロッパ遠征でも自信をつけ、10月のオリンピックで日本の9得点中7得点を決め、2ゴールをアシストして、ストライカーとしての責任を果たした。
 釜本邦茂という素材が伸びていく過程で、そっ啄の機ともいうべき、68年1〜3月の劇的な変化を見れば、ユップ・デアバルとの接点もまた、彼の大きな幸運の一つだったことを知る。


ランニングもシュートも指導

 デアバル・コーチは、西ドイツのサッカーが戦後の困難な状況から、1954年(昭和29年)のワールドカップで初優勝、そしてブンデスリーガ誕生への歩みのなかで、当時のトップであったセミプロリーグでストライカーとして活躍し、コーチとなり、協会の主任トレーナー、西ドイツ代表監督をも務めた。
 監督のキャリアのなかには、80年、欧州選手権優勝、82年、ワールドカップ準優勝といった輝かしい実績を持っているが、クラマーと同様にプレーヤー育成にも優れていたようだ。
 釜本邦茂の指導に関しては、日本からやってきた優れた素材のために、デアバルは毎日、自転車に乗り、釜本のランニングに付き合ったこと、ゴールを決めるためには、いいフォームでシュートすること、そして、機会を“待つ”こと、知ることなどを語り、シュート練習をした。
 若いプロを相手の練習試合では、西ドイツ式の早い、強いタックルに対して、釜本の動きも早く、いつも気持ちを集中させての毎日の練習でトラッピングの精度も反転の早さも養われた。
 2006年のワールドカップでも多くの人は、あらためてストライカーの重要さを知ったといえる。
 日本でもここしばらく、いいシューターが生まれ、試合は活況を呈している。
 いいストライカーの育成を望む人たち、出現を待つサポーターとともに、かつて日本に生まれた国際的CFのドラスティックな変化に付き合った、コーチを思い、日本の指導者たちの努力に声援を送りたい。


ヨーゼフ(ユップ)・デアバル 略歴

1927年3月10日生まれ。

《選手として》
 ・ブンデスリーガ設立(1963/64シーズン)までの西ドイツのトップリーグ、オーベル・リーガ・ウエストで契約プレーヤー(FW)として活躍。
 ・アレマニア・アーヘンで100試合に出場、41得点。
 ・フォルトゥーナ・デュッセルドルフで110試合、45得点
 ・ドイツカップ決勝に3回出場
 ・西ドイツ代表2回、同B代表1回

《監督、コーチとして》
 ・1962〜64年 FCフォルトゥーナ・デュッセルドルフ監督
 ・1964〜70年 ザールラント州協会主任トレーナー
 ・1970〜78年 西ドイツサッカー協会(DFB)アシスタント・トレーナーとしてシェーン監督の下で働く
 ・1978年10月〜84年6月 DFBトレーナー。シェーン監督引退のあとを受けて、西ドイツ代表チーム監督
  80年、欧州選手権優勝
  82年、ワールドカップ・スペイン大会準優勝

 ・1984〜88年 トルコ・イスタンブール・ガラタサライ監督
 ・2006年7月 キッカー誌コメンテーターに


★SOCCER COLUMN

DFB主任トレーナーとして
 デアバル監督がザールラント州の主任コーチであったのが、釜本との縁の始まりだが、この州の会長、ヘルマン・ノイバーガーが西ドイツ協会(DFB)の副会長(後に会長)となって、デアバルもDFBのトレーナーとなり、シェーン代表監督のアシスタントを務めた。シェーンもザールラント州主任トレーナーの時期もあったことは不思議な縁。
 その先輩の引退のあとを受けて、戦後、DFBの3人目の主任トレーナー、代表監督となったデアバルは、欧州選手権やワールドカップで実績を残しながら、1984年の欧州選手権での不振への責めを負い、6年で去る。この年8月の釜本の引退試合には出席できなかったが、新しい仕事場、トルコのガラタサライで高い評価を受ける。トルコ代表チームやトルコのクラブが欧州選手権やワールドカップで活躍しているのは、デアバルの影響と見る人もいる。
 彼の采配の妙は、82年のワールドカップ準決勝、対フランス戦で見られた。1−1の72分にマガトに代えて、不調だったFWルベッシュを投入する。圧倒されながら、90分の後、延長に入って2分で1−2とリードされると、さらにケガでベンチにいたFWルンメニゲをDFブリーゲルに代える。その2分後、ジレスのゴールでとうとう1−3となったが、ここからドイツの反撃。まずルンメニゲが102分に1点を返し、108分にルベッシュのヘッドパスをフィッシャーがオーバーヘッドボレーで3−3とした。
 PK戦はフランス6人目のボッシュ失敗の後、ルベッシュが決めて、ワールドカップ史上初の延長PK戦で西ドイツは勝利した。以来、ワールドカップのPK戦でドイツは負けなしの伝説を守っている。


(月刊グラン2007年1月号 No.154)

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