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自らプレーヤーで指導者でもありサッカーに生涯を捧げた記者 山田午郎

 82歳の私は会合などで、“サッカー記者の草分け”といった紹介をされることがあるが、そのつど、「私より随分前から、立派なサッカー記者がいた。“草分け”というなら、それら先輩の代表格として朝日新聞の山田午郎さんの名を挙げてほしい」と訂正している。
 山田さんは1894年(明治27年)生まれだから、昨年12月号で紹介した内野台嶺さん(1884〜1953年)よりも10歳若く、東京高等師範の教授であった内野さんが大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)の設立に苦労したころは、現役選手だった。1921年(大正10年)の第1回全日本選手権大会(現・天皇杯)優勝チームのキャプテンだったが、花形プレーヤーというだけでなく、信望のある指導者で、東京蹴球団(略称・東蹴)というクラブの中核として、関東中等学校蹴球大会や関東少年大会の開催などにも力を注いだ。小学校の先生からスポーツ記者になって、戦前の朝日新聞やアサヒスポーツ(週刊)の紙面で活躍し、また大日本蹴球協会の常務理事として、早くから協会運営にかかわるとともに、戦後の協会機関誌の編集の中心でもあった。
 プレーヤーで記者で、関東での大会の創設者の一人であり、これらの大会に朝日新聞社の後援を取りつけ、「よちよち歩き」だったサッカーに新聞社の目を向けさせた功労者でもあった。


青師、東蹴の花形プレーヤー

 山田さんは1917年(大正6年)3月、東京の青山師範学校本科第一部を卒業した。入学は1912年(明治45年)で、日本のスポーツ界が夏のオリンピック・ストックホルム大会の初参加に向かっていた年だった。福島県・二本松の出身で、高等小学校を卒業後、土地の小学校で代用教員を務めてから、青山師範に入った。小学校の先生を育成する師範学校は、東京高等師範の流れをくんで蹴球が盛んなところが多かったが、東京の青山と豊島の両校はとりわけ熱心で、山田さんはここでサッカーの虜になる。
 東京高師の校友会にサッカー部が生まれてから10年経っていた。
 山田さんが卒業したときの5月に東京・芝浦で、第3回極東大会が行なわれた。フィリピンの提唱で、中華民国(現・中国)と日本の3ヶ国で1913年(大正2年)に始まったこの総合スポーツ大会に、日本サッカーが初参加した。
 東京高師のチームが当然のように代表として出場したが、中華民国にもフィリピンにも歯が立たなかった。日本のレベルアップには、学生だけでなくOBの力も必要と、東蹴がつくられ、山田さんは中心メンバーになった。


大成功の関東中学大会

 国際試合はたとえ大敗であっても、各地に大きなインパクトを与え、次の年、中京地区と関西地区でそれぞれ地域サッカー大会がスタートする。関東では東蹴が主催者となって朝日新聞社の後援を取りつけ、関東中等学校蹴球大会を開いた。8チームが参加し、豊島師範Aが優勝したが、東京高師、東大、外国人チームの模範試合も人気を呼び、皇族も観戦されたという。
 関東で小学生の大会をスタートさせたのも東蹴の仕事だった。その小学生を対象にした山田午郎著の指導書『ア式フットボール』が1925年(大正14年)に出版された。
 その序文によると、同年のマニラでの極東大会に日本代表の監督として出かけたとき、途中の上海や香港で子どもたちがゴムマリで遊んでいるのを見て、日本でも少年への普及の大切さを知ったとある。


大正15年、先生から記者に

 サッカーへの傾倒は人生をも変え、小学校の先生から朝日新聞の記者へ転向した。
 1924年(大正13年)から始まった関東大学リーグでトップ級の技術、体力が伸び、日本代表チームは強くなった。このころからベルリン・オリンピック(1936年)に向かっての上昇期に、記者として後輩たちのプレーを取材し記事にすることは、山田さんには生きがいだったろう。
 1930年(昭和5年)、東京・明治神宮競技場(現・国立競技場)で行なわれた第9回極東大会での日本対フィリピン(7−2)、日本対中華民国(3−3)は積年の努力を発揮して、アジアのトップに立つのを目の当たりにし、4年後、特派員として出かけたマニラでの第10回大会では、選手層の厚みが出たための関東、関西の融合の難しさを感じた。その反省の上に立ったベルリンでの快挙を深夜の編集局のデスクで外電を見ながら新聞をつくり、号外を出した。朝日新聞、アサヒスポーツの紙面だけでなく、協会機関誌にもまた山田さんの筆は進んだ。
 空襲下でも新聞社を守るという地味で重要な仕事をやり遂げた山田さんが、戦後のサッカー復興の力となったのはいうまでもない。青山師範、東蹴とサッカーの直系の10歳下の後輩、宮本能冬さん(1907〜95年)が朝日にいたのも心強かった。ある時期の朝日の東京本社は、協会の事務所の感があったほど“サッカー人の誰かに会える”ところだった。
 1949年(同24年)に朝日新聞を定年退職した。JFAの機関誌の編集の仕事を続け、自らも書き続けた。JFAの貧乏時代だったから、すべてが大変だった。自らプレーヤーであったこと、指導者として長い経験と、書かせぬ勉強の上に立つ試合評や技術評は見事だった。鋭くはあったが、日本サッカーへの愛情があった。
 戦後10年間、トッププレーヤーであった私の兄、太郎の「山田さんはよく見ていてくれる」という言葉は、当時の選手たちの気持ちを表している。
 1930年(同5年)の極東大会で、それまで出ると負けのサッカーが初めてアジアのトップに立ったときの喜びあふれるリポート。関東学生リーグでの厳しい指導、そしてまた、晩年というべき時期に、1953年(同28年)の天皇杯決勝を見ながら、鼎談(ていだん)の形で経過を追った“枯れていて粋”な機関誌での試合評など、80年前に記者家業に入った山田さんの記事は(若い人には言葉遣いで難しい点があるかもしれないが)、いつ読んでも新鮮で、大先達のサッカーへの思いの深さを知ることになる。64歳でなくなった山田さんの戒名は「報道院徳風民興居士」――福島県二本松市の大隣時の墓地には、いまも東蹴の後輩たちが訪れるという。


山田午郎・略歴

1894年(明治27年)3月3日、福島県安達郡二本松町(現・二本松市)に生まれる。
1917年(大正6年)青山師範学校本科第一部卒業、東京・浅草の待乳山小学校訓導に。
            9月、内野台嶺の提唱による「東京蹴球団」結成に応じ、同クラブの中心選手、指導者となる。
1918年(大正7年)2月、東京蹴球団主催の第1回関東中等学校蹴球大会を開催。
1921年(大正10年)11月、第1回全日本選手権大会(現・天皇杯)が東京で開催され、東京蹴球団が1−0で御影師範を破って初代チャンピオンに。山田午郎は主将として、エリオット駐英大使からFA寄贈のシルバーカップを受ける。
1925年(大正14年)5月、マニラで開催された第7回極東大会で日本代表監督を務める・
            8月、少年向きの指導書『ア式フットボール』(杉田日進堂刊)出版。
1926年(大正15年)大森町・入新井第二小学校訓導を辞し、東京朝日新聞社運動部員となる。
1932年(昭和7年)『蹴球のコーチと練習の秘訣』(目黒書店刊)出版。
1934年(昭和9年)第10回極東大会(マニラ)特派員。
1936年(昭和11年)朝日新聞社(東京)運動部次長。
1939年(昭和14年)同運動部長。
1942年(昭和17年)同庶務部長。
1944年(昭和19年)朝日新聞社東京本社非常対策本部幹事長。
1949年(昭和24年)朝日新聞社を定年退職、客員嘱託に。
1958年(昭和33年)3月9日、脳出血のため急逝。大日本蹴球協会常務理事、関東蹴球協会副会長。


★SOCCER COLUMN

80年前からの少年サッカー
 東京高等師範学校、豊島師範学校、青山師範学校の3校――高師が旧制中学校教諭の育成、師範が小学校訓導の育成――はそれぞれが先生の教育機関だが、東京高師が日本の学校スポーツとしてのサッカーの師であったことは、昨年12月号の内野台嶺、11月号の坪井玄道でも紹介した。その東京高師の流れをくむ東京の豊島師範と青山師範もまた早くからサッカーの盛んな学校だった。
 1917年(大正6年)の第3回極東大会に東京高師のチームが日本代表という形で、サッカー部門に初参加した。この国際試合で大敗し、力の差が大きいことを知った関係者は、学生だけのチームでなく、卒業後もプレーを続けられるよう、そして一つの学校にとらわれずにプレーするものを集めること――を考え、その年の9月に3校のOBによる東京蹴球団を結成した。
 東蹴は全日本選手権のような公式試合に出場するだけでなく、関東大会での開催や、全国巡回指導などを行なった。もちろん、極東大会にもクラブから日本代表を送り込んだ。大正末から東京帝国大や早稲田、そして慶応といった大学サッカーチームが実力を上げ、東蹴はトップチームの位置を明け渡すが、日本サッカーが協会の組織をつくり、普及と実力アップに乗り出したこの時期での非常に大きな役割を果たした。
 私自身、東京オリンピックの直後から少年サッカースクールを提唱し、少年への普及を図った一人だが、山田午郎さんを中心とする東蹴は1922年(大正11年)に第1回関東少年大会を開いている。この小学生の大会は、大戦が近づいて物資が不足する1940年(昭和15年)の第19回大会まで続いた。
 私の生まれる以前から、小学生への普及に取り組んだ山田さんのグループの先見性に脱帽する――。


(月刊グラン2007年2月号 No.155)

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