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日本サッカーの創生期から発展期まで、歴史とともに生きて歴史を伝えた大先達 新田純興(上)


大正10年のJFA創立から

 今年、2007年(平成19年)は、日本サッカーが初めて極東大会に参加し、正式の国際試合を行なってから90周年にあたる。この大会が刺激となって、1921年(大正10年)には大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)が設立された。JFAはこの9年後の1930年(昭和5年)の極東大会でフィリピンを7−2で破り、中華民国と3−3と引き分けるまでに代表チームの力を向上させ、15年後の1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックでは、優勝候補のスウェーデンを破って、世界を驚かせるまでになった。
 新田純興(すみおき)さんはこのJFAの創設から、戦前の上昇期や大戦後の苦難と復興期、さらに東京、メキシコ両オリンピックの成功、その後の停滞期にずっとJFAの運営にかかわった協会人であり、同時に自らの体験の上に熱心な調査と鋭い洞察を重ねた優れたサッカー史家だった。1971年(昭和46年)のJFA創立50周年事業として刊行された『日本サッカーのあゆみ』(1974年出版、日本蹴球協会編)の編集委員長を務めた。新田さん情熱によって生まれたこの「あゆみ」は、温故知新を志すサッカー人にとっての重要な手引きとなっている。


明治43年にサッカーに出合う

 新田さんは1897年(明治30年)の生まれだから、前号で紹介した山田午郎さん(1894〜1958年)――サッカー記者の草分け――よりも3歳若く、第4代JFA会長の野津謙さん(1899〜1983年)より、2歳年長。あの建武の中興のとき、鎌倉幕府の北条高時を攻め滅ぼした新田義貞の流れをくみ、徳川家の御家人の家柄。生まれは裁判官の父・純孝の任地、函館だが、2年後に東京に戻ってからは東京で暮らした。東京高等師範付属小学校から同付属中学校(いずれも旧制)を経て、第一高等学校から東京帝国大学(現・東京大学)の秀才コースをたどったチャキチャキの江戸っ子。
 サッカーとの出合いは1910年(同43年)1月、小学校6年生のとき。「川崎喜一という若い先生が来て、手ほどきをしてくれた。黒板に図を書いて、ゴールライン、タッチラインなどABCから教えてくれた。高師蹴球部のいた寄宿舎が小学校のすぐ近くだったので、毎朝7時ごろ〜ボールを借りて蹴っていた。その仲間が一緒に中学に入り、高師の練習時間に一緒に蹴らせてもらった(JFA機関誌より)という。


初の国際舞台の刺激で進化

 1917年(大正6年)に東京・芝浦での第3回極東大会に、日本が初めて参加するとき、最も先進的だった高師の選手で代表チームを編成したのは、自然なことだったが、試合をしてみると、フィリピンや中華民国との間に大きな力の差があることを知った。
 両国に追いつこうとの考えが、高師だけでなく、各校のOBを集める東京蹴球団の結成となり、その東京蹴球団の主催で、次の年から関東蹴球大会が開催された。同じ年、名古屋でも大阪でも大会が始まった。大阪で日本フートボール大会と名乗った大会が、今の高校サッカー選手権となる。こうした日本でのサッカーの興隆を知った“本家”イングランドのFA(フットボール・アソシエーション)から純銀の大カップが日本に届いた。日本チャンピオンに寄贈したいというFAの厚意に報いるためにも、日本でのこのスポーツを統括する協会の設立と、その協会の下で日本チャンピオンを決める大会を創設することになった。
 高師の校長である嘉納治五郎の指示で内野台嶺たちが中心になって、1921年(同10年)9月10日に大日本蹴球協会が誕生し、その年の11月26、27日に東京・日比谷公園で第1回全日本選手権「ア式蹴球全国優勝大会」(現・天皇杯)が開催された。


ゴールを運んで職務質問

 新田さんはこのころすでに、東京帝国大学工学部冶金学科に進んでいた。東大は第1回の関東大会の招待試合に第八高等学校(現・名古屋大学)の出身者ばかりでチームをつくって出場したが、第3回大会には八高OB以外も参加して東大チームをつくるようになり、1921年(大正10年)5月の第5回極東大会(上海)の日本代表には、東大から野津譲さんが加わっている。
 全国優勝大会では新田さんは大会運営にかかわった。会場へ大八車でゴールポストを運んでいるとき、不審に思った警官から職務質問を受けたというエピソードも残っている。また、決勝の批評も『野球界』という雑誌に寄稿した。
 野津さんの回想によると、そのころ、サッカー仲間たちは何かというと新田さんの家に集まり、試合運営や、どうすれば日本のサッカーを強くできるかなどの議論をしていたという。
 そうした中から大学リーグが生まれ、旧制インターハイ(高等学校の大会)が創設され、日本サッカーのレベルアップの態勢が整う。
 そこにビルマ人のチョー・ディンの指導が加わった。『How to Play association football』というテキストを書いて、実技と理論の両面から基礎を教える彼の全国巡回は、各地のレベルの引き上げに大きな力となった。
 チョー・ディンは東京高等工業学校(現・東京工業大学)に留学中だった。第1次大戦で英国軍人として戦い、名誉の負傷をしていたとか、親しくなった新田さんが牛込の下宿に遊びに行ったり、彼のプレーを写真に写し、雑誌『運動界』に掲載したこともある。
 大学を卒業した後、新田さんは三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社して佐渡の鉱山に12年間勤務した。この間はJFAの仕事はできなかったが、1934年(昭和9年)に東京本社勤務になると、再びJFAの理事として活動した。
 ベルリン・オリンピックの募金活動でベートーヴェンの第9の演奏会を開いたこともあった。黒字だった。ただし、交響団のギャラは新田さんが支払った。


新田純興・略歴

1897年(明治30年)1月14日、函館に生まれる。父・新田純孝、母・きく。
1899年(明治32年)裁判官の父の転任に伴い、東京に戻る。
1903年(明治36年)4月、東京高等師範付属小学校に入学。
            6年生のころ、サッカーの手ほどきを受ける。
1910年(明治43年)4月、東京高等師範付属中学校に入学。サッカーに熱中する。
1916年(大正5年)4月、第一高等学校(旧制)に入学。
1919年(大正8年)4月、東京帝国大学工学部に入学。
1920年(大正9年)大日本体育協会蹴球部委員として、21年の大日本蹴球協会創立や第1回全日本選手権開催に力を尽くす。
1922年(大正11年)4月、東京帝国大学工学部冶金学科卒業。三菱鉱業に入社し、佐渡鉱山に赴任。
1934年(昭和9年)8月、三菱鉱業東京本社勤務。翌年から36年までJFA理事となる。
1936年(昭和11年)春、ベルリン・オリンピックへの選手派遣の募金活動を行なう。
1940年(昭和15年)JFA常務理事、第11回明治神宮大会の参加選手練成合宿の部長として、選手の指導にあたる。
1945年(昭和20年)47年まで、日本体育協会評議員、理事を務める。
1949年(昭和24年)54年まで、古河一高教諭としてサッカー部を指導。
1958年(昭和33年)5月、第3回アジア競技大会、蹴球の部運営委員。
1962年(昭和37年)5月〜64年10月まで東京オリンピック・サッカー競技運営委員。
1963年(昭和38年)71年まで、JFA常務理事。
1972年(昭和47年)4月29日、日本サッカー普及の功績により、勲第五等双光旭日章。
1974年(昭和49年)2月、編集委員長として『日本サッカーのあゆみ』(講談社刊)を出版。
1976年(昭和51年)4月、JFA顧問。
1984年(昭和59年)8月1日、死去。


★SOCCER COLUMN

武将・新田義貞の一族
 新田純興さんの子息の新田純弘さんが、2000年(平成12年)3月に出版した『埋み火はまた燃える― 新田一族銘々伝 ―』(さきたま出版会)によると、純興さんたちは、建武中興の際に鎌倉幕府攻略に功のあった新田義貞で知られた新田一族。建武の中興の後、足利の世となったため、敗者の立場となって、さまざまな問題があったが、徳川の世になって幕府御家人となり、江戸を本拠とするようになったとのこと。純興さんが日本サッカーだけでなく、世界のサッカーの歴史にも興味を持ち、幅広く調べておられたのも、こうした名家の中に自然に温故知新の気風があったのだろうか。
 新田純興さんの丁寧で行き届いた書き物を読み返しながら、その歴史への造詣の深さに、大先達の背後にある家の深みを感じることになる。


ベルリンへの募金
 1936年(昭和11年)、ベルリン・オリンピックに日本代表が参加するための費用は、大日本体育協会からの5万4千円では3万円ほど不足していた。
 それを大日本蹴球協会は募金で補うことにした。
 当時の協会の機関誌『蹴球』には、その一人一人(一口というべきか)の寄付金が掲載されている。個人では5円、10円が多いが、そのころ、上級職公務員の初任給が75円、普通の会社の初任給が50〜60円だったから、5円、10円といっても大金である。
 そんな中で、大口を見ると、田辺治太郎(五兵衛)の3千円、新田純興の2千150円が目立っている。田辺さんは田辺製薬の御曹司でお金持ちだったが、それでもその当時、3千円で邸宅が買えたのだからすごい金額だ。新田さんの2千150円は、日比谷公会堂でベートーヴェンの第9の演奏会を開いての収益金だった。収益といっても、楽団のギャラは新田さんが負担したから、入場料のほとんどを寄付したことになる。
 当時のスポーツマン、サッカー人の心意気というべきか――。


(月刊グラン2007年3月号 No.156)

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