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JFA創立に関わり、ベルリン行きを支援。“東京”成功の裏方を務め、50年史を世に残した 新田純興(下)

 2007年のJリーグが始まりました。名古屋グランパスエイトに、今、日本で最も活気ある地域を代表するチームにふさわしい“元気な”試合を期待したいものです。
 今や、国民的関心事となったサッカーですが、こうした“いま”に至るまでの長い歴史のなかで、その時々に活躍し、大きな影響を及ぼした人々を取り上げる連載『このくに と サッカー』も、いよいよ8年目に入りました。昨年11月号から日本サッカーの創世記の先達、坪井玄道、内野台嶺、山田午郎といった人たちを紹介しましたが、先月号と今月号は新田純興(すみおき)さんです。


練成合宿の練成部長

 前号に記したとおり、新田さんは1897年(明治30年)生まれだから、私よりも27歳年長。この大先輩を知るようになるのは、大戦後、私が記者になってからだが、実は戦前にも接点がないわけではなかった。
 1939年(昭和14年)の第10回明治神宮国民体育大会で蹴球(サッカー)競技に、それまでの「一般の部」に新たに「師範学校の部」「中等学校の部」が加えられた。
 この中学校(旧制)の部で私の兄がいた神戸一中が優勝し、師範学校の部の優勝チーム、広島師範と15分間の天覧試合(昭和天皇がご観戦になった)が行なわれ、神戸一中はこれにも1−0で勝った。当時の世相を反応して中学、師範学校両チームの参加による練成合宿が、芝の増上寺で行なわれた。お寺に泊まって、朝の読経や掃除、精神訓話などがあり、ピッチ上の試合とは別に、次世代の若者の修養を図る企画だった。この練成合宿の役員のトップは、当時の大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)の深尾隆太郎会長。新田さんは練成部長を務めていて、実質上の責任者だった。
 前号でも触れたとおり、東大工学部冶金学科を卒業した新田さんは、22年から三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社し、新潟県・佐渡の高山に10年ばかり勤務し、34年から2年間、東京本社に戻った。その間にベルリン・オリンピックがあり、選手派遣費の募金活動のために音楽会を開くなどするのだが、その後、2年間、秋田の鉱山で仕事をし、また38年から東京本社へ戻っている。
 明治神宮大会の練成合宿はこのときのこと。いわば、東京に戻ってくると、そのたびに、待ってましたとばかりにJFAの募金活動や合宿といった大切で裏方的な仕事の責任を持たされていた。几帳面で企画力があり、しっかり実務をこなすだけでなく、人格者で若年層の指導者にも適役と、周囲から信望があったからだろう。
 大戦が始まり、42年に物資の統制が強まると、新田さんは三菱鉱業をやめて、鉱山統制会に入り、統制会本部資材部長の要職に就く。大戦は新田家にも大きな災いとなり、45年に神田の本邸は空襲で全焼した。8月15日の終戦とともに、鉱山統制会も解散となり、自身も職を失う。焼け野原の東京を去り、知人を頼って茨城県古河市に移り、49年からしばらく古河一高の講師を務めた。54年までの学校勤めの間に、同校で蹴球部を創立し、後の「サッカーの町・古河」の基礎を築いている。


アジア大会と東京オリンピック

 居を埼玉に移し、1954年(昭和29年)に古河一高を退職した。58歳の新田さんには第3回アジア大会(58年)と第18回オリンピック東京大会(64年)という大イベントが待っていた。
 JFAの野津譲・第4代会長(在任期間・55〜76年)にとっても、一高、東大で2年先輩の新田さんは、最も頼れる仲間だった。
 東京でのアジア大会は、6年後のオリンピック開催を目指すスポーツ界にはすばらしいリハーサルであったし、私たちスポーツジャーナリストにとっても、いい経験になった。しかし、JFAにとっては、大会の1次リーグで2戦2敗という代表の成績は、まさに「どん底」気分だった。今から考えれば、この“底”から這い上がろう、そして東京オリンピックでは開催国として恥ずかしくない成績(せめて1勝)を――と考え、努力したのが、東京オリンピックでの1勝と68年のメキシコ・オリンピックの銅メダル、そして日本サッカーリーグ(JSL)の開設や、少年サッカーの普及などにつながるのだから、まことに「禍福はあざなえる縄の如し」というべきか。
 それにしても、東京オリンピックに向かっての新田さんの仕事は、会場、施設担当として、駒沢と大宮と三ツ沢――つまり国立競技場以外の3会場の設計段階から施行までにかかわるとともに、協会機関誌へのオリンピック・サッカー史の執筆をはじめとする啓蒙活動もあって、ずいぶん忙しいものだった。そうした中で、FIFAに問い合わせて、これまでの記録を確かめ、オリンピック・サッカーの記録をまとめただけでなく、日本の各大会の記録をあらためて整えたのは、後のための大きな仕事だった。


70歳の情熱をかけた50年史

“東京”での対アルゼンチン逆転勝利の翌年にJSLという全国リーグがスタートした。企業内のクラブによるアマチュアではあったが、プロ野球以外の競技では初めての全国リーグで、メディアに注目され、スタンドの観客も多くなった。
 新田さんはこのリーグによって、プレーヤーの技術、体力が上がり、外国チームの来日も増えて、にぎやかさを増すことを喜びながら、いわゆる「プロフェッショナル・ファウル」といったプレーが出始めるのには強く反対していた。
 若いころからルールに通じ、英国流のスポーツマンシップ、ジェントルマンシップの信奉者でもあったからである。1968年(昭和43年)、メキシコ・オリンピックへ選手たちが出発するとき、多くのファンや先輩たちが「頑張って!!」と励ます中で、新田さんは“フェアプレー”を強調していた。
 この大会で、日本チームは銅メダルを獲得するとともに、大会のフェアプレー賞に輝き、さらにはユネスコからのフェアプレー賞も受賞した。新田さんの喜びは協会機関誌『サッカー』(69年1月号)の巻頭を飾る「フェアプレー・トロフィーに思う」と題した随想の中で、よく表れている(コラム参照)。
 21年のJFA創立から47年を経て、オリンピックでの銅メダル獲得は、71歳のときだが、新田さんはまだまだサッカーから足を抜くことはできなかった。
 71年に満50周年を迎えるJFAの50年史の編集、出版が迫っていた。
 JFAは70年に50年史作製を、50周年記念事業の筆頭に取り上げ、新田純興、田辺五兵衛、鈴木重義、多和健雄、大谷四郎、中条一雄の6人を編集委員として作業を進めることを決めたが、実質的には新田さんによる50年史といってよい。
 東京オリンピックのころから協会機関誌を通じて、全国の府県協会、地域協会それぞれの歴史を問い合わせて収録し、参考としただけでなく、70年1月にはFIFA本部に、世界各国協会の記念発行図書を見せてもらいに自ら出かけたこともある。
 こうして74年2月4日に講談社から発行された『日本サッカーのあゆみ』は、B5判ハードカバー、254ページ。内容は(1)あゆみの大筋、に始まり、(2)草創の時代(日本蹴球協会ができるまで)(3)大日本蹴球協会の誕生とその発展(1921〜30年)(4)アジアから世界へ(1931〜40年)(5)世界の孤児(1941〜50年)(6)再び希望に燃えて(1951〜60年)(7)憂喜こもごも(1961〜70年)(8)より立派なゲームを目指して、となっている。
 この50年記念誌は、スポーツの年史に欠かせない記録の収録という点では、十分とはいえないが、新田さんが自ら見聞きしたエピソードが多く書き込まれていることに意義があり、ことに草創のころから大戦中に至るまでのJFAの誕生から、20年間について多く書き込まれているのが、貴重で、ありがたいと思っている。


★SOCCER COLUMN

フェアプレーこそサッカー
 楽しい元日だった――という書き出しで始まるJFA機関誌『サッカー』(1969年1月号)の新田さんの随想は、前年の68年(昭和43年)秋のメキシコ・オリンピックで、日本代表が銅メダルとともにフェアプレー賞を受賞した喜びを次のとおりに語っている。

「メキシコ・オリンピックへの期待」という表題で、何か書くようにと協会機関誌編集部から昨年秋に求められたとき、私は夏の欧州遠征でのテレビで見た日本選手のファウルが気になっていたから、この大会ではファウルを少なくし、新しく設定された最初のフェアプレー賞を受けるのは日本代表でなくてはならないと書いた。
 そう要望していたことが、日本選手の激しい戦いぶりの中で実行され、それがFIFA関係者に認められて受賞と決定したと知って、喜びはこの上ないのである。
 イギリスにおけるフットボール千年の歴史を学び、パブリック・スクール以降、大きい理想を持ち、教育的に育て、大国民の誇りを込めたサッカーを築き上げた事情も知り、アソシエーション・フットボールへの手ほどきを受けてからすでに60年、JFAの設立の推進をしてから50年、サッカーを生きがいとしている者として、最近たまたまサッカーが好きになったという若いファンに、本格的にサッカー競技の栄光の本質を正しく、かつ十分に知ってもらい、一人一人が深い理解をもってサッカー競技に対するロイヤリティを身につけるよう、努力したいのである。


昭和13年に40歳サッカー
 ねんりんピックで60歳以上のサッカーが行なわれ、また今年は70歳以上の試合もあったが、その超OBの試合のはしりは――『日本サッカーのあゆみ』によると、1938年(昭和13年)に神宮競技場で行なわれたJFA役員対新聞記者チームだという。このときの協会役員の最高齢が新田純興の43歳3ヶ月。次いで野津譲の40歳、あとは30代だった。記者側は最年長が山田午郎の46歳、あとは比較的若いが、サッカーの素人が多く、協会側が6−2で快勝した。勝利に気をよくして、今後も試合しようと決まり、これが戦後の四十雀(しじゅうから)クラブ誕生につながり、文字どおり40歳以上のサッカーの始まりとなった。今日の老齢サッカーも70年近い歴史があるらしい。


(月刊グラン2007年4月号 No.157)

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