賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >旧制神戸一中の生徒たちを半日の指導で変身させたビルマ人留学生、大正期のクラマー チョー・ディン

旧制神戸一中の生徒たちを半日の指導で変身させたビルマ人留学生、大正期のクラマー チョー・ディン

 日本のサッカーがいまの「かたち」になるまでに、そのときどきに活躍し、後に大きな影響を与えた「ひと」を紹介するこの連載は、しばらく日本サッカーの創世記のころの先達にかかわってきました。このあたりで、少し若い世代に移ろうかとも考えましたが、ちょうど今年は1917年(大正6年)の第3回極東大会の参加――つまり日本が初めて国際試合を行なった年――から90周年にあたるので、その極東大会をステップに実力向上を図った時代に戻り、技術向上に大きな力となったビルマ(現・ミャンマー)人の留学生、チョー・ディンさんについて語ることにしました。


留学生によるサッカー解説書

 チョー・ディンの名は2000年4月にスタートしたこの連載にも時折、登場している。竹腰重丸さん(2000年5〜7月号)のところでも、竹腰さんが大正末期にチョー・ディンの指導を受け、その全国巡回にも付き合ったというくだりがあり、また、日本サッカー協会(JFA)が創立50周年に編集した『日本サッカーのあゆみ』(1974年、講談社)にも記述がある(2006年3、4月号『JFA創設にかかわり、50周年史を残した新田純興』参照)。
 いずれも、それまで“手探り”でボールを蹴っていた明治、大正でのフットボーラーの前に現れたチョー・ディンが自ら模範を示し、理路整然と基本となる技術から、戦術やポジションプレーを説いた功績を伝えている。
 サッカーの技術書が店頭にあふれ、DVDなどで繰り返し試合やスター選手のプレーを見ることのできる時代とは違って、適当な解説書がまだ手に入らなかったときに、チョー・ディンによるテキスト『How To Play Association Football』(By KYAWDIN)は、まさに干天の慈雨であったに違いない。


師範学校や高校に勝った中学生

 私がこの人の名を知ったのは、旧制神戸一中(現・神戸高)ア式蹴球部(サッカー部)に入って、先輩たちから、古い話を聞かされたときのことだった。いまの高校サッカー選手大会の前身である、日本フートボール大会で1925年(大正14年)に神戸一中が優勝するのだが、その原因のひとつが1923年(大正12年)のチョー・ディンの指導であったという。当時は旧制中学(現・高校)の大会にも、2歳年長の師範学校(小学校の先生を育成する学校)も参加していた。同じ教育系で日本サッカーの始祖ともいうべき東京高等師範学校(旧制中学の先生を育成する学校)の流れをくんでいる師範学校のほとんどで、サッカー(当時は蹴球、あるいはフットボール)が盛んで、各地の大会でも師範学校の優勝が多かった。愛知県でも愛知第一師範(現・愛知教育大)が強く、後に名門となった刈谷中学(現・刈谷高)も、なかなか勝てない時代が続いていた。
 その御影師範のタイトル独占を破って、第8回日本フートボール大会に優勝した神戸一中のチームは、5年生(最上級生)が若林竹雄、北川貞義、岩田貞吉の3人、4年生が沢野定長、野口公義、永野武、永島二郎、3年生が豊田桑吉、田中悌三、山口一郎(GK)といったメンバーだった。
 当時4年生だった沢野さんは後に、こう記している。
「僕が3年のときに神戸高商(現・神戸大)の大会で優勝した。初めてのことだった。毎日新聞のフートボール大会は、まだ規模が小さく、むしろ広島からもチームが来る高商の大会の方が、事実上の関西ナンバーワンを決めるもので、僕たちはこちらのほうを重視していた。
 2回戦で広島一中に勝ち(2−0)、準決勝で御影師範を1−0で破り、決勝で広島高師附属中に1−0で勝った(附属中には手島志郎がいた)。
 この高商大会には、この年から大正14年まで3年連続優勝し、毎日新聞の大会にも勝った。旧制高校にも、高等専門学校、大学などにも勝った。東京では、高師付属中が強いというので、それと一戦交えたいと皆が希望したが、機会はなかった(日本フートボール大会が全国大会になるのは、大正15年から)。
 中学校だけでなく、上位学校にも勝つようになったのは、チョー・ディン氏のコーチが大きい。ボールは靴で蹴るということ以外は何も知らなかったわれわれには、キックにはインステップ、サイドキックのフロント・パート、バック・パートといった蹴り方があること、正面タックル、側面タックル、スライディング・タックルやヘディングについて、彼が模範を示し、解説してくれることは、すべてが驚異だった。わずか半日の指導だったが、皆が懸命に覚え、次の試合には応用した。われわれより長い期間、コーチを受けた御影師範が、十分、この教えをものにしていなかったうちに、神戸一中は独特のショートパス、スルーパスを完璧に近いまでに使いこなせるようになった」
 この沢野さんは神戸一中の27回生。1923年(大正12年)にチョー・ディンから半日だけ習ったときの5年生(25回生)にキャプテン西村(後に赤川)公一の名があって、25〜28回生まで、つまり私(43回生)より18歳から15歳年長の先輩たちがチョー・ディンに直接教えてもらった世代――。神戸一中はパスをつないで攻める、当時としては新しいサッカーで、全国制覇に向かい、その技術と試合運びを身につけた卒業生は、後に高等学校、大学の主力となって、日本サッカーのレベルアップの大きな源となった。


関東大震災で全国巡回指導へ

 チョー・ディンのプロフィールについては、滞在期間が5年ばかりだったために、詳しくは知られていない。
 帰国した後の消息についても、JFAもかつて教えを受けた人たちも、折にふれて調査したが、まだつかめていない。
 チョー・ディンが最初にサッカーを教えることになったいきさつは、新田純興さんによると「大正10年に、極東選手権で初めて海外(上海)へ出かける全関東蹴球団の一人、守屋英文が代表に決まってから、高等師範の校庭でチョー・ディンの指導を受けた」とある。
 また、高師附属中学の部史『附属中学サッカーのあゆみ』では、35回生(大正15年卒)の竹内至さんが「チョー・ディンが高師のグラウンドで全関東蹴球団や附属中の選手たちにキック、シュート、タックルといった基本技術を教えた。大正12年に出版した著書に“日本で過ごした3年間におけるプレーヤーの欠点”という言葉があるから、サッカーを教え始めたのは大正9年の秋だったと思われる」と述べている。
 その附属中学を出た鈴木重義(30回生、大正10年卒)が早稲田の高等学院(早高)に入り、ここでチョー・ディンにコーチをしてもらい、1923年(大正12年)にはじまった旧制高等学校の全国大会(インターハイ)で早高が優勝する。
 誕生して間もない早高の優勝の裏に、チョー・ディンの指導があったと各校が気がつき、彼のもとへコーチの依頼が相次いだ。
 彼は指導用のテキストを自ら英文で書き、走り高跳びのアスリートであったチョー・ディンの陸上競技の仲間、平井武をはじめ、早高、附属中の生徒たちの協力で、日本語版を1923年8月23日に発行した。
 そのすぐ後、9月1日に、あの関東大震災が起こった。東京・蔵前にあった、チョー・ディンが留学していた東京高等工業学校(現・東京工業大)も校舎が破損して、授業ができなくなった。
 全国からの要望と、学校の休みが合致して、ここから彼の巡回指導が始まった。
 山口高等学校(現・山口大)にいた、ノコさんこと竹腰重丸さんも、彼の指導を受け、その確かな技術と指導法に感服し、これを広めようとした一人だった。
 ノコさんを中心に、東大がショートパス戦法で関東大学リーグで1926年(大正15年)から1930年(昭和5年)まで6連覇し、日本サッカーのリーダーとなる。そして1930年の第9回極東大会で、東大を主力とする日本代表がフィリピンに勝ち、中国と引き分け、初の東アジア1位となる。このときのメンバーの主力が、神戸一中や東京高師附属中でチョー・ディンの指導を受けたプレーヤー。監督は留学生を日本サッカーの指導者へ変身させた鈴木重義だった。


★SOCCER COLUMN

ビルマとチンロン
 ビルマ(現・ミャンマー)に帰国してからのチョー・ディンについては、教え子たち、関係者の調査にもかかわらず、いまだによく分からないようだ。
 そのため、この連載の決まりであるプロフィール(年譜)は今回は取りやめることにした。日本の恩人の一人であるこの人のことについて、さらに詳しく調べていきたい。
 ビルマという国は、今、軍事政権で、付き合いの難しいところだが、チョー・ディンが生まれた1900年は、1886年から英国の勢力下にあり、同じくビクトリア女王の支配下であったインドの一部となっていた。
 1863年にFAが創設された後、手を使わないフットボール(サッカー)が英国人の船員や、技術者、軍人たちによって世界に広まったが、ビルマにもそういう経路で伝わったのだろう。
 もともと東南アジアには籐製のボールを蹴る遊びがあり、タイではセパタクロー、ビルマではチンロン(チン=籐、ロン=ボール)といって、盛んに行なわれていたから、サッカーの普及も早かったのだろう。チョー・ディンとの交流が深かった東京高師附属中の『附属中学サッカーのあゆみ』には、チョー・ディンがこのチンロンをするくだりが記されている。


『How To Play Association Football』
『How To Play Association Football』の日本語版は、いまの新書版に近い小冊子で68ページ。目次は以下のとおり。
 総論/蹴球家(フットボーラー)に対する忠告=以上、3〜11ページ。
 攻撃/守備/キャプテンの選択=以上、12〜18ページ。
 センター・フォワード/ライト及びレフトインナー/ライト及びレフトウイング/センターハーフ/フルバック/ゴールキーパー=以上、ポジションの解説が19〜28ページ。
 キック/サイドキック(フロントパート)/サイドキック(バックパート)、インステップキック/低きドロップキック/高きドロップキック/ヴォリーキック/シューティング/シューティングに際しての注意/ドリブリング/右側タックル/右側スプリット・タックリング/正面タックル法(第一法)、同(第二法)/側面タックル法/ヘディング(側面)、同(前方跳躍せずして)=以上、技術の解説が29〜52ページ。
 ゴールキーパーの捕球/ボールをバーの上を越えさしむること/ひざの高さの強きボールの捕球/スライディング法=以上、55〜58ページ。
 攻撃に際してのフォワードの位置/防御線/ウイングよりセンターへのパス/スルーパス/コーナーキックのときの位置/スローイン=以上、59〜65ページ。
 フットボール靴/競技場=以上、66〜68ページ。

 当時の日本で、サッカーの技術や戦術について、このように分析し、具体的に、そして写真を使ったテキストはなかった。
 ボールを蹴る動作についても、足で蹴るのは腰を軸にした円運動だから、どうすればどう飛ぶのかなどと、理論的に説明してくれた――とノコさんは言っているが、いまから思えば、1900年生まれ、23歳のチョー・ディンはサッカーが好きなだけでなく、走り高跳びの競技者としてスポーツの解析力と指導力に優れていたと推察される。大正末のサッカー界にぴったりの指導だったといえる。


(月刊グラン2007年5月号 No.158)

↑ このページの先頭に戻る