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宿命のライバル韓国の名プレーヤーたち

日本サッカー50年『一刀両断』第5回
聞き手 賀川浩(大阪サンケイスポーツ)


 この号が町に出るころにはオリンピック予選の日韓シリーズがはじまっているだろう。日韓戦といえば1967年秋メキシコ予選での、あの3−3の壮烈なゲームが目に浮かんでくる。オリンピックやワールドカップなど世界的大会の地区予選ライバルでもある両国は、その歴史的背景も加わって、サッカーのタイトルマッチには、特別な雰囲気が漂うことになるが、今日は、わたしたちの手強いライバルであり、古くからの隣人である韓国サッカーの名選手を語ってもらうことにした。


サッカーの神様 金容植

――昭和20年より以前、つまり戦前に朝鮮半島が日本領であったときも、朝鮮ではサッカーがずいぶん盛んで、強いチームがありました。日本選手権(いまの天皇杯)でも、昭和10年の第15回大会に全京城蹴球団が優勝し、それから15年の戦前最後の大会まで、朝鮮地区の代表チームは、大会のひとつの“目”でした。

川本 普成(ふせい)専門、延禧(えんき)専門というふたつの強い学校があった。まあ、早稲田と慶応というところだ。普成は、いまの高麗大学、延禧は延世大学だったか……。

――それぞれに伝統を残して、高麗大学は早稲田と、延世大学は慶応と、定期戦を持っているんですネ。(編集注:固有名詞の読み方は日本式で、必ずしも韓国語の発音とは一致しない)
 金容植(きん・ようしょく)さんは普成の出身でしたね。昭和10年の全京城のメンバーにも入っていました。金さんは、わたしたちが少年のころから聞えた名選手ですネ。

川本 韓国では“サッカーの神様”だヨ。

――昭和26年にスウェーデンからヘルシングボーリュが来日しましたネ。あのときの第3戦で、西宮球場にいたら、韓国人らしいのが、わたしに話しかけるんです。「昭和11年のベルリンのときは日本チームに金容植がいたからスウェーデンに勝ったけれど、今度は金さんがいないから勝てないヨ」とネ。

川本 うーん、たしかにベルリンのときの金さんの働きは大きかった。彼がタマを引っ張り出してFWへつないだのだから……。金さんの粘っこいドリブルがなかったら、前の我々のところへボールが出てこなかったろうネ。

――金さんは、体は大きい方じゃありませんね。あれで、タフだったのですか。

川本 よく動く、というより、特色はキープだった。だからベルリンでも、一人でタマを持てた。タテへ出るというのではなしに、敵をかわし、一人でドリブルして、我々へ短いパスをつないだんだ。本人は、HBよりインナーをやりたかったらしい。しかしシュートは大振りで、“ポンと蹴るシュート”ができなかったから、ボクは、やはりHBが適任だと思っていた。

――キックもとても上手だったとか……。

川本 余裕があるとき、たとえばプレースキックなんかは上手だった。そうそう、ベルリンではこんなことがあった。スウェーデンに3−2で逆転勝ちし、その次はイタリアと当たった。前半0−2とリードされ、後半にFKがあった。ペナルティエリア左角から、ちょっと出たところ。

――得意の位置ですね。

川本 うまいこと、ゴール右スミがあいていた。これはいけると慎重に狙おうとしたら、右近(徳太郎=戦死)がとんできて、「オイ、早う蹴れ」と言う。金さんが自分が蹴るつもりで走ってくるというんだ。

――それで、

川本 焦って蹴って、出してしまった。

――ペナルティエリア左角から右足で、ゴール右スミは川本さんの狙い目なのに、惜しいことをしましたネ。

川本 うん、右近に急かされて……。金さんはプレースキックが得意なんだが、前へ出てくると、すぐには戻らないので、右近は前へ出てこないようにと思ったのかも知れん。戦後、会ったときに、金さんもイタリア戦のFKを覚えていて「あのとき、わたしが蹴ったら……」と言うていた。

――金容植さんは、ある時期、早稲田のメンバーだったと思っていたんですが……。

川本 それがおもしろいんだ。何かの機会に話したと思うんだが……たしか昭和10年だったか9年だったか、早大の専門部を受けにきた。試験が済んだ翌日、東伏見のグラウンドへちゃんと角帽をかぶって来ている。そのころ、高田馬場から東伏見へゆくのは西武村山線に乗る。その1時何分かのに乗ったら、ちょうど都合がいいわけだ。それに乗ったら、ちゃんと金容植が角帽をかぶって乗っていた、というわけなんだ。それでしばらく一緒に練習し、たしか日本選手権大会の関東予選の一試合ぐらい出たんじゃないかなあ。5月ごろまでいたか、ともかく、しばらくしたらいなくなった。マネジャーが調べたら、別に受験したのでも、入学したのでもないというんだ。

――いまなら選手登録で、ひと騒動ですネ。

川本 まあ、ノンビリした時代だから……いまもってよくわからんが、金さんは早稲田をヒヤかしに来たのかなあ。


早稲田の名主将 裴宗鎬

――金さんには15年前に一度お目にかかっただけで、現役のころのプレーは知りませんが、金さんより少しあとの人で、早稲田にいた裴宗鎬(はい・そうこう)さんのプレーは1回だけ見ました。PKをすごい早さで蹴ったのを覚えています。

川本 裴さんのあのすごいシュートはサイドキックだヨ。彼は金容植とは違って大きな体で、その体の幅の中でボールをキープする。そして、サイドキックでプッシュする。ボクが1回目の兵隊から帰ってきた昭和15年に日本選手権に早稲田WMWで出たことがある。このとき裴が早稲田のキャプテンをしていて、一緒に試合をした。ボクはポジションなしに自由に動き、裴を真ん中においた。1回戦の全延禧にはボクが2点を入れて2−1で勝ったが、裴さんからいいパスがきたヨ。

――戦前の関東大学リーグの最盛期、つまり早大の川本時代、それに続く慶応の二宮時代のあと、戦争直前に、いよいよスターの乏しかったころに東大の大谷四郎さんと早稲田の裴さんが活躍されたのが、わたしたち当時の中学生には印象が残っています。

川本 ベルリンのときは、金容植のほかに金永根という選手も代表候補の合宿にきていた。そのころ、延禧専門を出た金成[壬+千]という早いプレーヤーもいた。金成[壬+千]は体も大きく足が早かった。ボクとはウマが合って、よく飲みにいったものだ。
 戦後にもいいプレーヤーも出てきたが、やはり金(容植)さんが第一人者だろうナ。マラソンの孫基禎よりも、金さんの方がえらいような感じだった。

――川本さんよりひと時代遅いわたしたちは、戦前、戦中の中学サッカー(現在の高校サッカー)で朝鮮代表チームの威力を肌で感じてきました。彼らの重心の低い、粘っこいプレーに対抗するために、ずいぶん工夫をしたものですが……。

川本 ボクがいたころの早稲田は、リーグ戦では強いんだが、それ以外は慶応によくやられてネ。日本選手権も関東予選で負けてしまって、あまり朝鮮地区の代表チームとは試合していないんだ。しかし、出てきたチームは全延禧にしても全普成にしても、“勝つことの難しい”チームだったことは確かだ。

――昔から今の韓国選手まで、共通した特色がありますネ。

川本 重心が低くて、ブレーキのきいたキープが特徴だ。ボクは“ドスのきいたキープ”という言い方をしたいんだが、これは相手にダメージを与えるんだ。一時、ぽんぽんボールを離した時代があったろう。そのときは弱かった。

―― 一般的に、韓国のプレーヤーは蹴るタイミングが遅いという傾向もあるんですネ。

川本 うん、そういう姿勢でタマを持つから、シュートが一呼吸遅れる欠点はある。軽く扱うときとそうでないときと使い分ければいいだが、そこは、難しいところだ。軽く離すことばかりやると、大事なところで頑張れない。

――今度の韓国代表チームはスピードもあり、年齢も若く、なかなかいいようです。韓国プレーヤーが金容植さん以来の、本来の特色を残しながらどのように進歩してゆくか、大いに関心のあるところです。


(『イレブン』1976年5月号)


*KSL関連リンク

・金容植
 1936年ベルリン・オリンピック「サッカーの神様・金容植さん」
・孫基禎
 1936年ベルリン・オリンピック「スーパースター、孫基禎さん」
・戦前の朝鮮サッカー
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