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なぜ日本選手は接触プレーを避ける ベルリン以後の3FBとの違い

日本サッカー50年『一刀両断』第6回
聞き手 賀川浩(大阪サンケイスポーツ)


 モントリオール・オリンピック予選アジア第2組優勝リーグで日本代表チームは韓国、イスラエルとの4試合に1分け3敗。前回のミュンヘンに次いで、再びオリンピックの本舞台への出場権を失った。50年の日本サッカーの歴史の流れを川本泰三氏に聞く、この連載も、昔話の前に、まず、予選敗退にふれることになる。


個人技とは敵の接触下でのプレー

川本 久しぶりに加茂健がきたんだ。うん、加茂兄弟の兄貴の方だよ。

――川本さんの時代の早大FWの左サイド、いや、ベルリン大会の左サイドの加茂健、加茂正五の兄弟ですネ。兄さんの健さんの方は昭和21年から2〜3年、いわゆる戦後の早い時期にはまだプレーしておられました。

川本 ここしばらく、彼は、そうゲームを見ていなかったらしいが、モントリオールの予選を見たというんだ。

――加茂さんの感想をききたいですネ。

川本 彼はこういうんだ。「なんで日本選手はぶつかることをいやがって、逃げるのや」とネ。

――ふーむ。

川本 加茂健はもともと体もそう大きくなくて、当たるのはキライな男やのに、それがそういうことを言うとはネ、と思ったが、敵とぶつかることを避ける、というのは、敵との接触下でプレーすることを避けるということなんだな。日本選手は、敵との接触下でプレーができないから、いきおい、それを避けるわけだ。そのことを彼は、ちゃんと見ていたわけだ。

――サッカーというのは、いつも敵と接触しながらプレーをする競技なんですが……。

川本 そう、ボクがいつも個人技のことを言う。その個人技というのは、敵との接触下でやれる個人技なんだ。誰もおらんところでやれても、敵が来たらやれないんでは、サッカーの個人技とは言えない。チーム力向上のために一番大事な個人のレベルアップというのも、敵との競り合いのなかでボールをコントロールしたりパスしたりする技術を高めることなんだ。加茂健が指摘したように、今度の敗戦は、個人技のアップ(敵と接触下の)という最も重大なことを、さておいて、フォーメーションとそれをつなぐことだけをやってきた。ここしばらくの、間違った指導方針の結果が出たということだ。

――あるところで、サッカーは試合中に、誰かがムリをしないとなかなか得点にはならない、という話をしたんですが、若いコーチ達は、ムリというと、まず、ボールを持っていない者が、ムリな動きをする。まあ、しんどくても長い距離を走れとか、ともかく動いて見る、というふうに受け取ってしまう。ボールを持った者がムリをするかしないか、というふうには、すぐにピンときてくれない。ここ10年ほどの間、サッカーの指導者の多くが、ボールをさわっていないときの働きばかりを強調する風潮になっているんですネ。

川本 個人のレベルアップをほっておいてフォーメーションと展開ばかり考える。本末転倒もはなはだしい。モントリオール予選の話はこれくらいにして……。


ベルリン五輪の3FB

――このことは、何回強調しても、強調しすぎることはないと思いますが、まあ、次の機会もあることなので……。今日はベルリン以後の3FBのことを聞かせていただこうと思っていました。

川本 1936年のベルリン・オリンピックで、日本代表チームが3FBにした。その前から慶応が3FBのフォーメーションをやっていたともいうが、代表チームがはっきり3FBにしたのはベルリンからだネ。2FBでやっていたチームでも、相手のCFが強ければ、CHが後退してマークにあたる、というのは、すでにリーグ戦(関東大学リーグ)でもやっていたから、受け入れる素地はあったわけだ。

――種田孝一さんをセンターに、堀江忠男、竹内悌三で3FBを組んだのですネ。

川本 そう、通称モクさんの竹内さんは、体は頑強という方ではないが、足は早かった。パスのコースをよく読んで、インサイドからウィングへのパスをインターセプトするか、ウィングへボールが渡った瞬間、ビシッといくか、計算のすばらしい選手だった。
 堀江は、インターセプトより持たせてつぶす方だった。体がやわらかく、バネがあってスライディング・タックルしても、したと思ったらもう起きていた。頭からダイビングしてボールを止めにいくようなプレーを長い間つづけながら、ケガをしないんだから……。

――戦後も、しばらく試合に出ておられましたネ。わたしたちともやりましたが、荒い選手が、堀江さんに頭から飛び込まれて、堀江さんの頭が足に当たり、足を痛めてしまいました。堀江さんの方はどうもなかったのには驚きました。サッカーの理論家なのに、プレーの方はもっぱらファイターでしたネ。

川本 うん、プレーは無理論というのかなあ。いまならファウルを取られるのだが、堀江は試合中よく相手をケズったものだ。いちばん彼がよくケズったのは早大のFWだった。

――練習でバンバンやるわけ……まあ、昔はバックとFWの攻防練習で、ずいぶん激しくぶつかったものですが……。それで早大のFWは接触下のプレーが上達したのですかな。

川本 いや、彼のは特別で接触どころか……、おかげで上手になったのは浮きダマだョ。ボールを浮かしてパスをし、空中で処理してまた味方へわたす。当時の早稲田のFWが浮きダマを使うようになったのは、練習で堀江にケズられるのがイヤさにやりだしたんだョ。もっとも、それでも彼は足へバーンときたがネ。

――種田孝一さんは長身でヘディングが強かったとか。

川本 うーん、それがそう目立たないんだ。この人は、とにかくポジションのとり方がうまかった。HBの立原(元夫)などが、ガチャガチャやっているのをカバーしてそのコボレをすっと、取ったりするのがうまかった。

――戦前のFBといえばやはり、堀江さん、竹内さんですか。

川本 関西には、ゴットン(後藤靱雄)がいた。守る方ではあんまり記憶がないが、今でいう押し上げがな、いや押し上げというより押しのけというのが適切かも知れん。とにかく、押しのけるようにドリブルで出てきて、長いシュートをする。それもハーフラインから打ってゴールのバーに当たる、といった強烈なやつだった。しかし、まあ、守る方では、堀江とモクさんだろうネ。

――末岡圀孝という、早稲田の名CHはベルリン以後ですネ。

川本 ベルリンから帰ったときは、すでに関東大学リーグは始まっていて、早大は東京商大だかに1敗していた。残りを全部勝たないかん、というわけだ。FWはベルリン組が4人もいるんだがバックスは弱いんだな。

――堀江さんたちはもうOBだったんですネ。

川本 立原も高島も卒業していた。そして早大も3FBをやろうというので誰かおらんかと、ウィングの補欠をしていた末岡にCHをやらした。

――それが当たった……。

川本 上背はない、足もそう早くないのにいっぺんに上手になった。あれくらい短時日にうまくなった選手はいないョ。

――よく上背のないセンターバックを起用しましたネ。

川本 早稲田はその前の立原も大きくなかったから、あまりそのことに抵抗はなかったんだろう。末岡は背は低くてもヘディングは強くなったからネ。彼をセンターに据えたバックスは結局、そのあとのリーグは無失点で通して優勝したョ。点を入れられたのは学生王座決定戦で神戸商大(現・神戸大)とやって大谷一二に2点を取られただけだった。

――末岡さんは戦後第1回の国体の西日本予選のときに全広島チーム(中国代表)のCHをして関西の関学との対戦に出ておられましたが、関学のセンタースリーを一人で、ピシャッと止める場面が二度ほどあって、感心したのを覚えています。74年ワールドカップで小柄なフォクツ(西ドイツ)のプレーを見て、末岡さんのプレーを思ったものです。フォクツとはまた違った味ですが、タックルにはいるときの姿勢がよかったですネ。

川本 彼は、二段で足がぐーっと伸びたから……。うん、アタックにゆく彼は餌物を狙うヒョウがぐぁーっといく感じだった。ボクが卒業してから早大はガタッと落ちたが、それでも慶応のCF二宮洋一対早稲田のCH末岡圀孝は大学リーグのひとつの焦点となった。


(『イレブン』1976年6月号)


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・1936年ベルリンオリンピック
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