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30年間早大を鍛えた鬼監督 工藤孝一氏の思い出


語る人 川本泰三
聞き手 大谷四郎 賀川浩


大谷 工藤孝一さんが亡くなりましたが、早稲田の工藤さんというだけでなく、日本サッカーにも数少ない名物コーチの一人を失った淋しさを感じますね。

川本 昭和2年に早稲田に入って8年の卒業でね。はじめはキーパーらしかったが、ボクが入学した6年から、マネジャーで練習の笛を吹くようになった。卒業して生命保険の会社に勤めたが、1件も契約を取らずに辞めて同盟通信(現在の共同通信)にはいって、そのころから早稲田のコーチということになった。昭和九年のころだったろう。11年のベルリンオリンピックにコーチで行っている。彼が最初に花を咲かせたのが、このオリンピック行きの主力となった早稲田のチームを作り上げたときだな。それ以後、戦争後はしばらく盛岡にひっこんでいて、25年か26年にサッカー忘れがたく東京へまたまた出てきて東伏見のグラウンドのすぐ近くに居を構え、初めて正式にこのとき早稲田の監督となったのだよ。

大谷 怖い監督だったという話ですね。

賀川 釜本に聞いても、怒られたこと以外にない、と言っていた。鬼監督と言われていたらしいですね。

川本 率直に言って、選手としては成長しなかった。ところが、研究したのか、なぜか、サッカーに打込みはじめた。理論家でもないが、ガンコというか、とにかくよく怒るんだ。練習では、フラフラになるほどやらされてね。へばって坐りこんでしまうこともあるのだ。すると石が飛んでくるという具合でな。

大谷 石をぶつけるのは有名な話や。

川本 それで、戦後現役から排斥運動が起こったこともあった。我々の時代は、それぞれ一国一城の主で槍一筋の連中ばかりやから、少々怒られても堪えなかった。しかしやるだけはやらないかんからな、まあ、相当しぼられた。

◆ ◆ ◆

大谷 工藤さんの考えておられたサッカーとはどんなサッカーだったのですか?

川本 実はボクにもちょっと言いにくい。豪傑選手が好きやった。ボクの場合は、家族ぐるみのつきあいの間柄だったが、41年に彼が病気になったころからしばらく、半月に1回ぐらい繁々と手紙をもらったことがあるんだ。その内容といえばすべてサッカー・オンリーだ。1に日本サッカー改革論、2に早稲田を強くする方法、3は個人技を強くするにはどうすればよいか、ということばかり。とにかくサッカーが好きやった。昭和6年から、途中休んだとはいえ41年の病気になるまで、ずっと30数年早大をコーチしてきた。病気が少しよくなるとまた杖をつきつき、それでもグラウンドに姿を現わす、そして練習が終わった選手を周りに集めて相変わらず文句をいうとる。その間、戦前の黄金時代から、いまの八重樫、釜本、森にいたるまで相当の第一線選手を育てとる。まあ、こんな例は、日本のサッカーでも恐らく空前絶後ではないだろうかね。それをふりかえると、技術的にどうということではないが、何ものかがあるね。人間的なものかも知れんが、クラマーにも何ものかがあるが如くに、工藤にもあったな。

賀川 理論派ではないが、グラウンド上で選手の能力の限界を少しずつ伸ばしてゆく力、そうした練習には自信があったのでしょう。

川本 東大に手島志郎さんという有名なセンターフォワードがいてね、非常に小さい人だが、スピードがあってね、後から斜めの縦パスをもらって、ボールと一緒に相手のバックをぴゅーと突き抜けて飛び出すプレーが強かった。工藤はそれをやれと言うんだ。だがね、技術指導をやるわけではない。そこでどうすればよいか、その技術的開発は選手が自分でやらざるを得ないのだよ。

賀川 本当の実力とは、体力の限界でやれるものでないと本物でないという説が昔からあるが、そういう限界を伸ばす意味で、疲れたときにもっとやらせる強制力というか、それは指導者に必要なのですよ。まだコーチ制度の確立していない時代では、練習をリードするのはキャプテンだが、自分も疲れるからトコトンまで行きにくい、その限度を乗り越えさせる強制がグラウンド・マネジャーの仕事だったのです。

大谷 何かそういうぎりぎりの点で選手をぐいぐい突いていった。そこから早稲田のあの試合のドタン場になっての強さが生まれてきたのやないかな。

川本 そうだとボクも思うな。強いチーム・カラーが出てきたな。

大谷 そういう意味で工藤さんは早稲田のサッカーを作ったともいえる。技術面ではそういい選手がそろっていない年でも、早稲田というのは何か試合に対していやらしいほど強情なところがあって、最後まで押してきたな。

賀川 一人一人に個性があってね。

大谷 それが華麗につながっているわけやないの。だが、何かぎりぎりのところでもまれてきた粘っこさでつながっていたな。

川本 こうした早稲田を育てた彼は、絶対に誉めたことのない、いつもむつっとして文句ばかり言っとるのだが、こういうことがあったのだ。ボクがシベリア抑留から帰国したときだ。工藤は盛岡から真っ先に手紙をくれたよ。その手紙が非常に短くて、また「シベリアでご苦労さん」なんて月並みなことは一字もないのだ。まず「拝啓」そのあとが「一つ、戦後のサッカーについて批評せよ。二つ、誰それと誰それのプレーについてその利害得失を述べよ」その誰それの一人はたぶん岩谷(俊夫・故人)だったと思う。片方は忘れたが、手紙に書いてあるのはただそれだけだ。十数年会わなかった最初の手紙がそれだが、まあ、そんな男やったね。この規格外の手紙が、実は工藤流の精一杯のいたわりなのだ。口に出して月並みないたわりなどいえる男じゃないんだよ。

賀川 現役には怖い監督だったかも知れないが、部外者の我々には穏やかな感じだったですがね。

川本 そりゃ、やたら怒っとるわけやない。彼もむくつけき男だが、かつて早大が大阪へ遠征してきたとき、突然宝塚歌劇をみにいくと言い出したのだ。みんなびっくりしたな。幼なじみがいたわけや。それがのちに広島の原爆にあった園井恵子なのだ。

大谷 とにかく、近ごろの見方からすると、古い型ではあっても、早稲田を通じて大きな足跡を残した特異な存在でしたね。

川本 まあ、いわゆる“サッカー馬鹿”だろうね。そうして、その中心は早稲田なのだ。だから、早稲田オンリーのサッカーだったともいえる。東伏見のグラウンドの近くに薬局を開いて、その方は奥さんに任せて、自分は好きなグラウンド通いだ。死ぬまで怒っていたそうだが、幸福な男だよ。

賀川 東伏見はオレの庭だ、という気持ちだったでしょう。日本代表の選抜制に対して、単独チーム論がその主張だったようですが、ベルリン以来、早稲田オンリーのコーチ生活とも関係ありますね。

川本 その早稲田のすぐ近くで亡くなって、告別式のあと、OB、現役で棺をグラウンドへ運んだ。まずOBの古い者から順次若い者へ、現役へと手渡していって最後にグラウンドの中央に置いて、その棺をかこんで“都の西北”を歌ったのだ。こんな葬式はサッカー界でもまずないだろう。しかも、告別式には慶応の連中がたくさん来てくれてね。彼も以て瞑すべきだろう。


(『イレブン』1971年11月号)


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園井恵子

※『日本サッカーの魂 追憶・工藤孝一』(工藤孝一記念誌作成委員会 1997)は国立国会図書館秩父宮記念スポーツ図書館でご覧いただけます。

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