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戦前の代表的ストライカー 二宮洋一とボク自身……

日本サッカー50年『一刀両断』第9回
聞き手 賀川浩(大阪サンケイスポーツ)


バンコクで鬼武監督が感じたキープ力の差

――ヤンマーがバンコクでのクィーンズ・カップに優勝し、そのあとの日韓リーグ・チャンピオンの定期戦にも勝つと、このところよくやっていますネ。

川本 うん、何しろ優勝はいいことだ。ただし、鬼武監督の話によると、バンコクでの決勝は80パーセント相手がボールをキープし、こちらは1点とられたらガタガタとくる、という状態だったらしいネ。この決勝相手に限らず、二流チームとやっても個人のキープ力は、むこうが上だったというんだ。

――日本リーグで一番キープ力があることになっているヤンマーが、東南アジアのそれほど名の通っていないチーム相手にでもそんな有様、ということですネ。

川本 その点が問題だ。二宮寛・新監督のもとに再出発した日本代表チームも、こういう点にどう取り組むか、だヨ。

――経験豊かなストライカー釜本を代表チームに起用するかどうか、という点にも、関係があるんじゃないですか。カウンター・アタックといったって、闇雲にボカーンとボールを蹴って追っかけるわけじゃないでしょう。カウンターアタックの起点がいるんでしょう。

川本 起点というのが、キープできる選手だからネ。まあ、ボールを持つこと、ボールを正確に蹴ること、一人で相手に勝つこと、それに興味を持って、自分で上手になろうとする選手が出なければしようがないだろう。

――若い連中のなかには、多少、そういう傾向もあるようですから、その芽をつぶさないようにしてほしいものです。
 さて、きょうは、50年の歴史のなかでのストライカーというテーマでお願いします。


独特のターンを編み出した手島志郎さん

川本 ストライカーという言葉を、どういうふうに使っているのかなあ。

――近頃では4−3−3の前の人をフォワードと呼ぶ代わりにストライカーなどと書いているときもありますが、まあ、やはり、相手をたたく男、打つ人、射手と、つまりは得点をねらう男、点取り屋というんでしょう。

川本 点を取るというのをストライカーとすれば、まさしくエウゼビオやミュラーはそうだったな。

――2人はそれぞれ個性的でタイプは違いますが、いかにも点取り屋ですネ。

川本 日本では、昔のことは知らないが、ボクらより前の世代では手島志郎さんが有名だった。小さい体で、それを補うのにいい出足を持っていた人だ。といって、1試合で5点も、6点も入れるというのでもなかった。

――昭和5年、東京で開催された極東大会で、日本がフィリピンに勝ち、中国と3−3で引き分けたときのCF(センターフォワード)でしたネ。篠島秀雄さん(故人・元日本協会副会長)が右のインサイドで、東大時代から手島・篠島のコンビの名は響いていました。
 わたしはそのころまだ幼稚園ですから、手島さんの全盛時代は全く知りませんが、戦後の全関西の練習のときなんかで、手島さんが後方から来るボールを迎えに行って、体をひねるでなく、素早いステップでゴールの方へ向き直るプレーを見たことがあります。

川本 うん、ボールを迎えに行って、それをやりすごして、反転するという感じだった。ボクが早稲田に入ったときは、手島さんは当時3年までだった東大の4年目で、リーグ戦で一度、右から来たタマを迎えに行って、それをやりすごし、左足でシュートをしたのを見て、うまいなあと感心したことを覚えている。
 まあ、手島さんは、ちょっとボクより時代が上で、それほど詳しくないが、日本のストライカーとして戦前で印象に残るのは、やはり二宮洋一だろうな。これは、オーソドックスでケレン味のないセンターフォワードだった。

――二宮洋一(にのみや・よういち)さんは大正6年生まれ、神戸一中から慶応。文字どおり、ゴールの虫で、今でも中学生の頃の試合の、自分の取った得点のシーンをちゃんと覚えていて説明してくれます。今の選手にくらべると決して大きい方ではありませんが、バネがあり、スピードがあり、ヘディングも、シュートも……。もちろん、ボールテクニックも上手でしたネ。


名CFにはシュートの型があった

川本 ちゃんとシュートの型を持っていた。

――左へ外して出たら、左足で右スミへ見事なのを決めてました。

川本 シューターの本質として、右利きの選手は、左の方が正確に蹴れる。右はアウトサイドでも、インステップでも、インフロントでも、色んな蹴り方もできるし、スイングの途中で、変化もできる。
 何でもやれるだけに、かえって正確さという点になると狂うこともある。その点、利き足でない左は、型が1つしかないが、その型に入れれば強いし、またその型に持っていくよう努力もする。二宮もそうだったから、左の一発はすごかったヨ。

――ボール扱いは右、左とも上手でした。利き足の右は、自在という感じでした。タイから中国人のクラブチーム「維和」が昭和28年か29年に来日したとき、試合をした二宮さんはもう40歳近くでしたが、相手チームは二宮さんの技術に敬服してボールテクニックを教えて欲しいと言ったという話があります。

川本 彼は全盛期に、ボクらのベルリンに相当する桧舞台がなく惜しかったが、戦後もアジア大会の代表など長くやっていた。

――二宮洋一さんを語れば、二宮さんより学年は3年上(学校は早稲田ですが)の川本さんの話になりますが、二宮さん以後となると、結局、戦後は釜本というスケールの大きな選手が出たから、ストライカーの系譜はここまで飛んでしまいますネ。

川本 そうだな、岩谷俊夫(故人・第1、2回アジア大会代表)も点に強いプレーヤーだったヨ。戦後組では釜本は別として、彼などはゴールゲッターだネ。

――重いシュートで、チャンスに強かった。

川本 ボクと同時代の大谷一二(神戸商大)も、点を取ったが、CFをやらずにウイングをやっていたから、いわゆるストライカーという印象には乏しい。こうしてみると少ないもんだ。

――いいストライカーがいるといないでは、ゲームの面白味は全く違います。ベルリン直後の早慶戦で神宮競技場(今の国立競技場)が満員になって、人がスタンドから溢れたこともあった。というのも、単に早、慶の人気だけでなく、早稲田の川本泰三、慶応の二宮洋一というストライカーに魅力があったのでしょう。


ぎょうさん得点したのは……

川本 うん、ボクは、迫力はなかったが、点を取ることなら二宮より、ぎょうさん(たくさん)取ったからネ。まあ、釜本や二宮より肉体的条件は低かったから、もっぱら相手のタイミングを外すことに苦心した。シュートはボクにいわせれば、1にコントロール(そのために型をつくる)2にキーパーとのタイミングが重要で、ボールの速さなどは、その次だヨ。
 ボクはコントロールには自信があったから、タイミングに気をつけたんだ。たとえば、ちょっと余裕のあるときはわざと蹴るのを遅らせて、相手のがタックルに来るのを待ったりした。タックルにこようとする出バナにシュートすれば、たいていキーパーとそのFBとはかぶってブラインドになるものだヨ。こういう話は、前にもしたかも知れんが、そう、ここで、ボクのシュートの秘密、ボクの肉体的なポイントを1つ言っておこう。


シュートと右足の指の関係

――それは?

川本 足の指なんだ、足の親指の長さがボクは5センチある。次の指は5.5センチ、その次が4センチ。普通より少し長いハズだ。ボクのシュートはこの3本の足の指にあったと思っている。

――これは面白い話になりましたネ。だが残念ながら川本泰三氏のシュートのナゾは次の号に持ち越しましょう。独特の低い弾道のシュートは足の3本指を利かしていたという点でしょうが……次回は、それを含めてストライカーの話を続けていただきましょう。


(イレブン 1976年9月号「日本サッカー50年『一刀両断』」)


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