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守りを分散させたオールド・ファッションの3ウィング

日本サッカー50年『一刀両断』第7回
聞き手 賀川浩(大阪サンケイスポーツ)


もう一度個性とは

川本 この雑誌イレブンでのボクの話も、もうずいぶんな分量になるのと違うかな。

――そうですね、イレブンの創刊が5年前の5月号(昭和46年5月1日発行)で、そのとき“川本泰三放談”という題で、大谷四郎さんと、わたしが聞き手になって、3人で話を進めさせてもらいましたね。

川本 うん、だから、同じようなことを、もうだいぶ繰り返しているはずだよ。ボクは、その前に、月刊東京スポーツにも頼まれて、ある時期書いたことがあるんだ。1967年5月、メキシコ・オリンピックの前年からだよ。その最初の号に「選手の個性を生かせ、そしてそれをチームプレーまで発展させること」と書いているんだ。いわば10年間、同じようなことを何べんとなく言ってるんだなあ。

――大切なことは何度でも言わなくてはならないでしょう。世間でもだいぶ、同じような意見が語られはじめていますよ。まあ、この連載の表題は「日本サッカー50年……」というのですが、そのうち、10年間、川本さんには一貫した話を続けていただいているわけです。序々に浸透しているんじゃないですか。

川本 その個性だが、それも本当に基礎から理解してくれているんだろうか。個性といえば、たいていは、足が早いとか、からだが大きい、なんてことを考えるんじゃないかね。

――まあ、それも個性のうちですが。

川本 冷静さだとか、クレバーというのも、そうだが、技術の個性といえば、それはやはり、ボールプレーなんだよ。

――どういう持ち方ができるか、どういう角度で蹴れるかに個性を見るわけですね。


ボール扱いの個性

川本 そうだ。もちろん、足の早さや、粘り強さ、などというのもそれぞれ違うだろうが、それより、ボールプレーを、どんなふうにやるか、というのが、その選手の一番大事な個性だ。

――ワールドカップのナマをみても、あるいは世界のトップチームのテレビを見ても、それぞれの一流選手が、それぞれの得意のボールの持ち方や、キックを見せてくれるから、みな分かっているはずですが……うーん、まあ、吉村をサイドに使ったりして、彼のボールの持ち方や右足のキックを殺してしまうくらいだから、そういえば、ボールプレーの個性というところに気が回っていないのでしょうかね。

川本 うん、個性の標準というのは足の早さや、からだの強さ、大きさだけではない。ボールの持ち方、蹴り方、ボールプレーにあるということだ。それと、これも10年間同じことを言っているが、上手になるのは選手自身の努力しかない、ということだ。結局、自分でやる練習量が足らんということだろう。


ウィング不在の日本代表

――さて、きょうのテーマのウィングにゆきましょう。結局、今度のモントリオール予選敗退の日本代表チームも、ウィングプレーヤー不在でしたね。

川本 ここしばらくウィングらしいウィングが少いのは世界的な傾向で、それがまた今のサッカーから面白さをなくしているひとつなんだが、トータルサッカーの時代といっても、ウィングという特殊なポジションをこなす職人、いわばスペシャリストをなぜ育てようとしないのかな。ヨーロッパのサッカーに対抗するためにも、ウィングを重視しなくてはいかんと思うんだがなあ。

――そのヨーロッパでも、いまウィング尊重の声は強まっています。ドイツや、オランダにも、ちゃんと、いいのがいます。イングランドでもウィングを見直しているようです。日本で戦前のウィングといえば、まず高山英華さんですか。

川本 高山さんはタッチラインぞいにコーナーまで真っすぐいって、センタリングした。足が早く、ボールを突っついて走る。走って、止まって(あるいは止まるとみせて)ボールを突っついて、相手を抜く、といったドリブルだった。

――タテのフェイントですネ。


加茂正五のドリブル

川本 ベルリン五輪代表の左ウィングだった加茂正五は、足が早く、センスもあり、フルバックのタックルにも強かった。タックルされてもタマを自分のものにしていた。彼はタッチライン沿いにドリブルし、ペナルティエリア・ラインの延長(コーナーから16〜17メートルのタッチ際)から中へ、ペナルティエリアのタテのラインとゴール・ラインの交叉点めがけて入ってきて、ゴールラインぎりぎりから45度にセンタリングする。これを根気よく、繰り返してやらせ、大学リーグでも確実にやれるようにした。
 彼のセンタリングの線上にCF、そして左インナー、右インナーの3人がくる。スウェーデン戦の得点がそうで、1点目はCFのボク、2点目は右インナーの右近がきめた。加茂がハーフラインあたりから、いったん中へ向かい、そして、また外へもち出す。そしてゴールライン目指して、切り込んでくる。あのドリブルは、メキシコの杉山にもなかったね。  もし杉山にあれができたら、本当に素晴らしかったと思うのだが……。

――杉山隆一も、衰えかけたころに、コーナーの使い方をつかみかけたな、と思えるプレーも見ましたが……。

川本 戦後のアジア大会などで活躍した加納孝(早大)という左ウィングは、右足で蹴れず、左1本だったが、中へ入るとみせて、外へ出るのがまったくうまかった。

――古典的ウィングというのは、タッチライン沿いのプレーが第一でしたからね。

川本 タッチラインを背にして敵は一方からしかこないという利点を生かしたんだよ。
 ボクらより少し古い時代の市橋時蔵さんは、グラウンドの外にいて、ボールを受けるときがタッチラインぎりぎりなんだ。外から走ってきて中へ入り、そこでボールを受ける。受けたときにはスピードがついていた。グラウンドの幅いっぱいに使う工夫をしていたんだ。
 ベルリンの右近徳太郎も慶応ではウィングもやって上手だった。そうそう名ストライカーの二宮洋一も、左ウィングをやったことがあったが、彼はウィングでもうまかったね。
 それに大谷一二。この対談でも何度か話が出たが、関学にも戦前、左に島、右に赤田というウィングがそろっていた。

――昭和6年ですね。手島さんのいた東大と東西学生1位対抗での引き分けを演じたときに活躍していた……。

川本 インナーが左が西邑、右が堺井、CFが東浦でいいFWだった。


メルボルンの鴇田

――そうした古典的なウィングの最後が鴇田正憲(ときた・まさのり)ですね。彼は戦後長く日本代表の右ウィングをやったが29年のアジア大会(マニラ)で、ウィングプレーというものの目を開いたと言っていました。

川本 昭和31年のメルボルン予選の日韓戦では鴇田はきいていた。あのころの彼は「ものになった」という感じだった。

――日本は当時、大幅な若返りをして、キープなんかの技術では、ずいぶん差があった。今度の予選より、まだ差が大きかったと思う。それでともかく第1戦を勝ったのは、ぼつぼつ体力の衰えかけていた鴇田のちょっとしたキープがあったからでしょう。

川本 点は左サイドで入れたが、彼のところからボールが出たからね。

――高校や大学の指導者には、わたしはメルボルン予選を例にとって、いいウィングの効果がいかに大きいかを話すのですがね。メキシコでも結局、杉山が左サイドで持つということが、釜本のシュートに結びついたのですからね。

川本 今のように、とくに守備重視の時代には、なおさら、守りを分散させるためにウィングが必要なのだ。いいウィングの出現を望みたいネ。

――ウィング育成に際しても、個性というのは足の早さだけでなくボールの持ち方(タッチラインを背にした)にまでさかのぼることを忘れないでほしいと、くどいようですが、もう一度繰り返しておきましょう。


(イレブン 1976年7月号「日本サッカー50年『一刀両断』」)


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