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高校大会にこつ然と現れ消えた幻のストライカー

日本サッカー50年『一刀両断』第3回
聞き手 賀川浩(大阪サンケイスポーツ)


 昭和50年度の全国高校サッカー選手権大会は浦和南高校が優勝した。51年度から首都圏開催などという不明朗な問題のあるなかで、高校のゲームは、よい試合が多く、多くのチームが技術の進歩、特にドリブルの進歩をみせたのは、まことに嬉しいことだった。高校大会の総まとめをしながら、話は、昭和30、31年のこの大会にこつ然と現れ、こつ然と消えた、幻の日本代表ストライカー志賀宏(しが・ひろし)君に及んだ。


本末転倒の1枚の感謝状

――高校選手権大会は8日に終わりましたが、その後、関西の新聞では、大会を首都圏へ移す問題について、なかなか活発にとりあげていますネ。

川本 ボクは閉会式のときに、長年関西でやってきたという歴史的背景を無視して首都圏へ移すことについては、なお慎重に関係者は考えてほしいと言っただけなんだが……。

――マスコミ関係者は、中央集権的ないき方に反撥していますからネ。そしてまた中央集権的政治をやるくせに、実際には、物事をきちんと運営する能力のない協会の実情をよく見ていますヨ。この大会の最終日にレセプションがあったんですが、そこでまた、奇妙なことが起ったんです。民放41社の名前で大阪サッカー協会に感謝状が贈られたんですヨ。

川本 これがまたおかしな話だった。日本サッカー協会から、後援してくれたテレビの方へ感謝状を贈るのならいいが、後援団体が主催者側へ感謝状を出すのはヘンだヨ。

――居合わせた人のなかには、クビをひねる者もいた。

川本 いちおう、これで大阪と縁が切れたというので、そういうことを考えたのだろうが……。

――えらい立派な銅版の感謝状で……。

川本 大阪はこれで終わり、ご苦労やった、ということで感謝状を出したという感じだが、それにしても本末転倒している。日本協会が大阪協会に出すならまだしも、後援団体が主催団体に出すんだからナ、知らぬ間に、後援団体が主催団体みたいな顔をしている、ということや。

――まあ、それほど主催者、日本サッカー協会が頼りなかったといえますが、それでも、やはり節度は守りたいものですネ。まあ、後援の民放41社が、大阪サッカー協会に感謝状を贈り、それを、日本協会の幹部役員が、横で見ているんだから……。

川本 テレビの方が1から10まで主催者の立ち場でやっていた。主催者は横で傍観していた。その表れがパーティにも出た、ということだろう。

――この首都圏への移転の問題は、新聞にずいぶん報道された(一部の地域には掲載されてなかったかもしれない)から、ここでは、まあ、これくらいにしておきましょう。ともかく、6日間の入場者数の半券でみると3万3111枚。1日平均5000枚。ほかに子どもをはじめ無料入場があるので、これはテレビのおかげでしょうがずいぶん盛況でした。ゲームもなかなかよかったし……。

川本 うん、高校サッカーはよかったヨ。日本リーグの真似をして陣地を固め、ただ勝つことだけに執着する、というサッカーでなかった。この点、高校の指導者に敬意を表したい。上位チームのゲーム展開をみていると、本当にそう思った。もっとも、さて、今年の高校で活躍した選手たちが上へゆくとどうなるか、日本リーグにしろ、大学にしろ……。

――高校大会で優勝したからといって、その後、本当に選手として大成するかどうかは分かりませんからネ。

川本 うん、昔から高校大会で活躍し、その後、トップ級の選手になった、というのは、むしろ少ないのじゃないかナ。

――戦前では川本さんの頃の大谷一二(東洋紡社長)さん、右近徳太郎(戦死)さんのときの神戸一中は優勝もしたし、2人の大選手を生んだんですが。

川本 ボクは、あの昭和5年の大会では市岡中学の4年生で大谷のチームと準決勝で顔を合わせて1−0で負けた。大谷、右近はその頃すでに中学生ながら有名選手だった。彼らは素質にも恵まれていたが、のちに超一流のプレーヤーになった。


幻の大型ストライカー志賀宏(浦和高)

――大物といえば、戦後では、昭和37年の大会で山城高校2年生の釜本が出場しています。

川本 釜本の前に志賀が出たのは、昭和30年ごろだったか。

――浦和高校の志賀宏は昭和30年の第33回大会、このとき2年生で、次の31年にも出場し、連続優勝したんです。

川本 彼はまったく素晴らしい選手だった。

――そうですねネ。30年の決勝の相手は刈谷で、刈谷には確か熊田という当時の高校生としてはなかなかのセンターハーフがいた。志賀に対してどの程度やれるか、と見ていたが、結局、歯が立たなかった。決勝のあとで、“ついに待望のセンターフォワードが現れた”と興奮しながら西宮球技場で記事を書いたのを覚えています。

川本 そうだろう。大きな体のくせに回転半径は小さい。ボールを扱ったら、前へ正対して小さいフェイントで持って出る。すべてのレベルの低かった当時、まったく、こつ然と現れた選手だった。ちょうどマニラの第2回アジア大会(昭和29年)のあとで、鴇田(ときた)、岩谷だけ残して君の兄貴(賀川太郎)たち古いメンバーを切って日本代表の若返りを期したときだ。そんなときだけにボクは志賀を見て、天の授けと、高校生のときに日本代表候補にした。

――シュートなども押さえがきいて、すごかった。身長は1メートル74、78キロぐらいだったか、体格の面でも日本代表に負けなかったでしょう。

川本 代表候補の合宿での練習試合でも先輩連中がよう止めない。彼が一番たくさん点をとるんだ。

――当然メルボルン・オリンピックへも連れて行こうと考えたでしょう。

川本 そのつもりだった。

――それが、なぜ途中で消えたのですか。

川本 彼は浦和高校を出て慶応の新人の年だった。確か最終選考の合宿のときに、試験と重なって、その試験を受けなければ1年遅れる。しかし、もし選手でゆけるなら(ゆけることがはっきりしているなら)試験を受けずに1年を棒に振っても良い、と言ってきた。志賀の本心かどうか、おそらく彼の周囲の連中の意見だったと思うのだが、ともかく、これには合宿に来ている連中が怒った。なかには、代表選手としてメルボルンへ行けないことは分かっていて、代表を盛り立てるために、勤務を休んで練習に来ている者もいる。そんな連中から見れば、若いのに、何を生意気なことを言うか、ということだろう。

――それで結局……。

川本 ボクは連れて行きたかったんだが、皆がこじれてしまってネ。


戦後の大物選手を一人なくした

――ただでさえ、弱い代表チームの気持ちが一致しなくてはいかんのでしょうが、それにしても惜しいことをしましたネ。彼がその時に代表になっておれば、チームも違っていたろうし、彼自身もそのあとの道も変わっていたでしょうに。ああいう優れた素質を持ったのがいれば、鴇田や八重樫も、もっといい試合をやれたんじゃないですか……。

川本 志賀は結局、慶応でもあまりやらずにサッカーの第一線から消えたが、あのとき、もしメルボルンへ行っていたら、日本のストライカーとしてある時代を画しただろう。日本代表チームも、あるいは、変わったものになっていたかも知れない。

――8年、年少の釜本の前の時代に、もう一人、いいストライカーがいたことになりますネ。

川本 今年も浦和南高校の田嶋など、いい選手はいた。しかし志賀はケタ違いという感じがしたネ。ずっとやっていたら、おそらく釜本につなぐまでやっていたろう。戦後の大物を一人なくしてしまったんだ。

――川本さんは50年近く、私は40年、この大会を見てきたわけですが、高校のときに、非常によいと思った選手が、そのまま、トップにまで、どんどん順調に伸びてゆく、ということは、まことに難しいことですネ。今年の高校大会のように、いいサッカーを見せてくれた若い素材が自分の能力を開いてゆき、いいチャンスをつかんでくれることを期待したいものです。


(イレブン 1976年3月号「日本サッカー50年『一刀両断』」)


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*関連外部リンク

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