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日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった

日本サッカー50年『一刀両断』第1回
聞き手 賀川浩(大阪サンケイスポーツ)


 日本にサッカーが伝わって百余年、日本サッカー協会が設立されて五十余年、長い年月のなかに多くの事件や問題がおこり、優れたプレーヤーが育ち、見事なゲームが繰り返されてきました。川本泰三氏に聞く新連載“日本サッカー50年、一刀両断”は戦前の最盛期から今までの流れのなかでのエポックメークな事件を、人を、問題を、語ってもらう企画です。川本さんでなければ語れない秘話や、人物評などを聞かせてもらえば幸いなことです。まず今回は関東と関西の対立から……。


東西大学対抗は昭和4年に始まった

川本 ボクが早稲田に入ったのは昭和6年、それより古いことは直接には知らないわけだが、日本サッカーの歴史は関東、関西の対立に始まり、その対立状態が続いた。ということだネ。

――昭和6年というのは、ちょうど、その前年の昭和5年の極東大会に日本が1位になったあとで、いよいよ盛り上がろうとしたときですネ。

川本 うん、中国と引き分けたんだ。そうそう、日本蹴球協会の機関誌も、昭和6年から発刊されている。そのころ関東大学リーグでは東大が強くて昭和6年まで6連覇した。昭和7年に慶応が優勝し、昭和8年に早稲田が初めて優勝する。たしか東西学生王座決定戦もやっていた。

――関東と関西の大学リーグナンバーワンの対戦は、記録によると昭和4年から始まっています。関西は、関学、京大が代表になることが多かったが、それまでずっと関東が勝っています。

川本 昭和8年の相手は京大だったかナ、早稲田は王座決定に、この年から11年まで、4年連続して勝った。それはともかく、昭和5年の極東大会の次は、昭和9年マニラの第10回極東大会に代表を送ることになった。その代表の選考のために全関東、全関西の東西対抗をこの年に限り2試合をやろうということになった。

――田辺五兵衛さんから聞いた話によると、単独チームが日本選手権や大学リーグに勝ったら日本代表になるのではなく、全国から国際試合に通じるプレーヤーを選抜しよう、という原則は昭和5年の頃からあったようですが……。

川本 その1次戦は甲子園(南運動場)で関東が5−3で勝ったが、2次戦は逆に神宮で関西が6−1で勝った。

――えらい大差ですネ。

川本 関東は早大が主力、関西は学校にこだわらずOBもだいぶいたかナ。なかなかいいメンバーだった。1勝1敗だから、関西、関東同数で代表を作ろう、ということになって、マニラ行きのチームができた。関西はOBが多いし、関東は学生だし、年齢も違って何らつながりのないチームだった。国内の合宿でもキャプテンのゴットン(後藤靱雄)ら関西の連中は門限に帰ってこず、竹腰監督が選手を集めて一発ぶち、泣き出すなどといった一幕もあった。おまけにこの大会には満州国の参加問題がからんで、右翼が日本選手団の参加を妨害したりした。

――日本の後押しで中国から独立した満州国を、極東大会にもアジアの一員と認めて参加させようという動きがあった。これに対して、中国やフィリピン側は認めないという、そんな満州国を認めないような大会はボイコットせい、というのが右翼関係者の主張で、出発前まで参加させまいとしたんですネ。

川本 神戸からマニラ行きの船にこっそり夜乗りこんだりした。まあ選手たちは何やかやあっても、ゲームは一生懸命にやったが……。

――蘭印(いまのインドネシア)に大敗しましたネ。

川本 一人、ものすごくうまいのがいて、散々やられた。ボクはこの蘭印戦より、このときのフィリピン戦の方が印象に残っている。先に3点取られて、4点入れて勝った試合だが、ちょうどスコールのあとで地面から湿気が上がって、その暑いこと。極東大会のルールで交代もあって、メンバーのうち2人ぐらいはたしか代わったハズだが、ほんまにえらい試合だった。

――昭和5年によい成績を挙げ、そのあとも力は上がったと考えていたのに、マニラでの成績は芳しくなかったんですネ。

川本 まあ選手たちは、ひとつのチームになってうまくやっていたが、選考のときの対立は次の昭和11年ベルリンにまで尾を引くことになった。


関東、関西対立の真相

――関東、関西といっても、結局は日本協会と関西協会ともいえますね。

川本 うん、日本協会が関東中心の選手選考を打ち出していたからね。日本協会対関西になっていた。昭和11年のときは、ひとつには早大がずば抜けて強かった。関東大学リーグ(昭和10年)の優勝を決めた早慶戦が8−0だったし、関学との大学王座も12−2だった。それで日本協会の主事をやっていた鈴木重義さんが早大中心でゆこうとした。まあ、これには関東の他の学校のOBからも、だいぶ反撥はあったのだが……それに早大を主力とした関東が甲子園での東西対抗で全関西に負けたりした。

――関西側は、溜飲を下げた……。

川本 うん、こんなことがあった。試合に負けた東軍は解散し、ボクは大阪の家へ帰っていた。夜中にゴットンから電話がかかってきた。“関西が勝ったからオリンピックも関西が代表で行くんや。お前(川本)は関西に入れたる。いま、どこやらで飲んでいる。右近(徳太郎)も来ているから、お前も出てこい”と言うんだ。行きはしなかったがネ。

――関西から何人か代表に入ったが、大谷(一二)さんが入らなかったので、関西側が怒ったという話でした。

川本 関大の上吉川(かみよしかわ、上吉川梁)、神戸高商の小橋(信吉)……といったメンバーも入っていたのだが、大谷が行かないというので辞退した。竹腰、工藤(孝一)、浜田諭吉さんたちが選考委員だったと憶えている。大谷がいかん、という理由は昭和9年のマニラで、中国との試合で、みんなの前で、相手が足を蹴りに来たとき逃げた、というんだ。

――大谷一二さんは、そのころ関西を代表する名選手でしたから……。古いスポーツファンは、今でも東の川本、西の大谷の名を覚えていますョ。釜本君が有名になってきたときにうちの新聞社の古手に、まず尋ねられたのは“川本や大谷と比べて釜本はどうだ”ということでした。その大谷さんが外れたから関西側は怒ったんですネ。

川本 選考委員会では、Mさんが浜田さんに主張させたんだとか聞いたがネ。ボクは選手でそういう協会側のことは直接知らなかったが、チームという点から見てもおかしいんだ。選考されたメンバーはCFがボクと松永(文理大)、高橋(豊二=東大)と3人もいてウイングがいない。これでは試合に困る。大谷を連れて行ってほしいとノコさんにも、言ったんだが……。
 スウェーデン戦は、その松永が右ウイングをやって1点を入れたがネ。大谷がおればまた違ったゲームができただろう。

――このとき関西協会は、日本協会から脱退しよう、という意見も出たようですネ。それを田辺さんがなんとか、まとめた……この話は田辺さんが亡くなる前にもよく話しておられたし、戦後の東西対抗などで西軍が集まると、後藤さんはじめ、大先輩たちから、その都度、聞かされたものですが……。

川本 ボクも早稲田だが、一選手の立ち場で、やはりああいう選考はおかしいと思った。だから結局、オリンピックでは、実際にゲームに全然出ないプレーヤーも連れて行ったんだ。ゴールキーパーも早稲田から2人も連れて行ったしネ。

――いつだったか、戦後に、単独チームを代表にという論が出たときに川本さんが反対されたことがありましたが、なるほど、こんな経験があったわけですネ。

川本 戦後にも、尾を引いていて、第1回のアジア大会(昭和26年)のときに、ボクが監督になるかも知れない、という話があった。この噂をきいて、早速、関西の某OBが、川本は早大だから、彼を監督にすると、関西の選手を連れて行かないようにするかも知れない、だから、川本を監督にしないようにしよう……と画策したとか。

――そらまた、疑心暗鬼(ぎしんあんき)もいいところですね。

川本 それくらいベルリンの選考は、あとに残ったわけだ。いずれにしても、関東、関西の対立が、日本サッカーの底流をなしてきた。
 対立で競い合って、両方が成長したこともあった。いい意味でも、悪い意味でも、対立して今日に至っている。


(イレブン 1976年1月号「日本サッカー50年『一刀両断』」)


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 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(中)
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