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このくにとサッカー
- 昭和の大先達・竹腰重丸(上)
- 昭和の大先達・竹腰重丸(中)
- 昭和の大先達・竹腰重丸(下)
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(上)
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(中)
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(下)
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(上)
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(中)
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(下)
- どのポジションもこなした“天才”右近徳太郎
- デットマール・クラマー(上)
- デットマール・クラマー(中)
- デットマール・クラマー(下)
- 75歳を超えてなお現場に立つ“鉄の人” デットマール・クラマー(続)
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター加藤正信(上)
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(中)
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(下)
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(続)
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(上)
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(下)
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(上)
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(中)
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(下)
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(続)
- 世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一(上)
- 世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一(下)
- 早稲田の“主” 工藤孝一(上)
- 後進地・岩手から銅メダル・チームのキャプテンを生み出した 工藤孝一(下)
- 天皇杯を7度も獲得した名ストライカー 二宮洋一(上)
- 天皇杯を7度も獲得した名ストライカー 二宮洋一(下)
- ゴールを奪うMFで優しい指導者 歴史を掘り起こした記者 岩谷俊夫
- “自主”こそサッカー 日本代表・ジーコ監督
- 攻守兼備のMF 努力の人 小城得達(上)
- 攻守兼備のMF 努力の人 小城得達(下)
- 日本代表を応援し続けて40年 サポーターの元祖 鈴木良韶さん(上)
- 日本代表を応援し続けて40年 サポーターの元祖 鈴木良韶さん(下)
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(上)
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(中)
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(下)
- 【番外編】ワールドカップ一周年 日本サッカーの質の変化
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(上)
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(中)
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(続)
- サッカーのために最初にブラジルから来日、大きな衝撃を与えた日系2世 ネルソン吉村大志郎
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(上)
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(中)
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(下)
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(続)
- 最初のショートパス経験者 昭和5年の日本代表 校長でサッカー・コーチ 高山忠雄
- “走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰
- “走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰(続)
- 日本の隅々まで足を伸ばし サッカーを教えたブラジル人 セルジオ越後(上)
- 日本の隅々まで足を伸ばし サッカーを教えたブラジル人 セルジオ越後(下)
- 戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(上)
- 戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(下)
- 戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(続)
- 【番外編】サッカー界の歴史指向とS誌選定、日本代表ベスト50 釜本邦茂の1位に思う
- 東北初の高校チャンピオンを育てた剣道の達人 内山真(上)
- 東北初の高校チャンピオンを育てた剣道の達人 内山真(下)
- 75年前の日本代表初代ストライカー。すり抜ける名手 手島 志郎
- 殿堂入り歴代会長と第6代藤田静夫(上)
- 京都と日本のサッカーに捧げた90年 第6代藤田静夫(下)
- どん底の時代から栄光の銅メダルまで、日本代表を押し上げたピッチ上の主 平木隆三(上)
- どん底の時代から栄光の銅メダルまで、日本代表を押し上げたピッチ上の主 平木隆三(下)
- ドイツ語の指導書をテキストに慶応ソッカー部の基礎を築いた初代キャプテン 濱田諭吉
- 日本代表を世界基準に向けさせた初の外国人監督 ハンス・オフト(上)
- 日本代表を世界基準に向けさせた初の外国人監督 ハンス・オフト(下)
- クラマーと日本とドイツのサッカー
- 日本が生んだ国際クラスのゲームメーカー 八重樫茂生(上)
- 日本が生んだ国際クラスのゲームメーカー 八重樫茂生(下)
- 50年前に活躍した日本人初のFIFA常任理事 市田左右一(上)
- 50年前に活躍した日本人初のFIFA常任理事 市田左右一(下)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(上)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(中)
- 【番外編】ドーハを思い起こす魔の2分間。その不思議の解明――
- 学徒出陣の中断期を乗り越え、クラマーを感嘆させた戦中派の代表 賀川太郎(下)
- 【番外編】走るサッカーを説く―― オシム監督
- 121年前、日本にサッカーを初めて紹介し東京高師−筑波大に根付かせた大功労者 坪井玄道
- 大日本蹴球協会(JFA)設立、全日本選手権開催。大正年間に組織作りを成功させた漢学者・内野台嶺
- メキシコ・オリンピックの8ヶ月前に釜本邦茂の劇的開花を助けた西独の名コーチ ユップ・デアバル
- 自らプレーヤーで指導者でもありサッカーに生涯を捧げた記者 山田午郎
- 日本サッカーの創生期から発展期まで、歴史とともに生きて歴史を伝えた大先達 新田純興(上)
- JFA創立に関わり、ベルリン行きを支援。“東京”成功の裏方を務め、50年史を世に残した 新田純興(下)
- 旧制神戸一中の生徒たちを半日の指導で変身させたビルマ人留学生、大正期のクラマー チョー・ディン
- チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)
- 伝統的な哲学を持ちつつ日本のサッカーとスポーツの国際化を図ったドクター 野津謙(下)
- 国際舞台での初勝利からベルリンの逆転劇まで代表チームのリーダー 鈴木重義(上)
- 1927年の1勝を1936年のベルリンへつないだ卓越したリーダー 鈴木重義(中)
- 厳しいコーチをバックアップし代表チームに栄冠を呼んだ監督 鈴木重義(下)
- 第3回アジア大会決勝で主審を務め、日本レフェリーの国際舞台への第一歩を記した 村形繁明
- 大戦前の4年間、光彩を放った慶應義塾のソッカーを築いた 松丸貞一(上)
- JFA創立から20年間の急成長を彩った稀有のチームリーダー 松丸貞一(下)
- オシムに代わる代表監督――火事場に強い男 岡田武史
- 自らは優れたランナー。体協の筆頭理事で募金活動に腕を振るったJFA初代会長 今村次吉
- 極東大会で活躍した名プレーヤー。JFAを支え、導いた 篠島秀雄(上)
- 第9回極東大会で中華民国と3−3を演じた最年少FW 篠島秀雄(下)
- 華族で貴族院議員。ベルリン五輪へ代表を送り成果を挙げた、第2代JFA会長 深尾隆太郎
- 日本のビール王、戦後のサッカー再興の力に。第3代JFA会長 高橋龍太郎
- 企業チームの部長としてチームをナンバーワンに。第7代JFA会長 島田秀夫
- 1936年ベルリン五輪 スウェーデン戦逆転劇のキャプテン 竹内悌三
- 30年極東大会、36年五輪。2つのビッグイベントを勝ち抜いた名FB 竹内悌三(続)
- 速さの杉山とともに成長したアジアユース1期生 宮本輝紀(上)
- 八幡製鉄で自ら鍛え杉山、釜本とともに銅メダルチームの核となった 宮本輝紀(下)
- 監督1年目から結果を残したピッチ上の妖精 ドラガン・ストイコビッチ(上)
- 監督1年目から結果を残したピッチ上の妖精 ドラガン・ストイコビッチ(中)
- 日本で見せた数々の好プレーのなか、多くのプレーヤーの規範となるキックの確かさ ドラガン・ストイコビッチ(下)
- 人の話を聞き、人を働かせ、自らも労をいとわぬ気配りの名手。日本サッカーの大功労者、長沼健さんを偲んで
- 79年前に初のアジア王者となった日本代表ゴールキーパー 斎藤才三(上)
- 田辺五兵衛とともに桃山中学をトップに、ゴットンとともに関学を関西ナンバーワンに。昭和初期の日本一のGK 斎藤才三(中)
- 関学を日本一に、極東大会で日本をアジア一に、大会主催社の記者として珠玉の批評を残した 斎藤才三(下)
- 友人の遺志を継ぎ、停滞期の日本サッカーのなかで赤字体質を改革。第5代JFA会長 平井富三郎(上)
- 登録制度の大改革、年齢別区分と個人登録。JFA財政建て直しを指導した第5代JFA会長 平井富三郎(下)
- 世界のサッカー国を相手に銅メダル獲得。メキシコ五輪の地味なヒーロー 鎌田光夫(上)
- 本番の1年前、ブラジルのパルメイラスを相手の守備戦術のシミュレーション。メキシコ銅メダルのヒーロー 鎌田光夫(中)
- 片山、山口、小城たちとともに粘り強い守りで銅メダルの栄光をつかんだ冷静なスイーパー 鎌田光夫(下)
- 東京五輪直前に19歳で抜擢。1対1の強さに“すっぽん”といわれたDF 山口芳忠(上)
- 密着マークでベスト4と銅メダルの栄光を生み、王様ペレに食いついてその本領を引き出した“すっぽん” 山口芳忠(中)
- ペレの「生涯最高のゴール」日本中に感銘を残すプレーを引き出した 山口芳忠(下)
- メキシコ五輪銅メダルチームを支えた右フルバック 片山洋(上)
- ソ連、欧州ツアーで腕を磨き、ひたむきに東京五輪を目指した日本代表DF 片山洋(中)
- メキシコ五輪で1対1の粘り強さで各国チャンスメーカーを封じた右DF 片山洋(下)
- 古希を前に、なお現場に立つメキシコ五輪銅メダリスト 松本育夫(上)
- 東京五輪代表漏れの挫折を東洋工、右サイドのプレーで克服。メキシコ五輪での銅につないだ 松本育夫(中)
- 爆発事故の死線を越えて。J2サガン鳥栖でも明るく闊達な指導 松本育夫(下)
- ベルリンの栄光を味わい戦後の日本サッカー復興期を支えた実力者 小野卓爾(上)
- 日本サッカー殿堂入り。多くのお祝いメッセージありがとう。ちょっと嬉しく、少し気恥ずかしい85歳の本人から 賀川浩
- 東京とメキシコの成功を将来に備えたFIFAコーチングスクールやJFAと中央大学の発展と基礎を築いた“実力者” 小野卓爾(下)
- 長い歴史とトヨタの先見をバックに花開いたピクシーと仲間たち。次は世界のビッグクラブへ
- 84年前に中華民国から1ゴール。兵庫、関西の協会長、神戸FC会長として少年育成に尽くした明治生まれのリーダー 玉井操
- 左利きの本田圭佑の進化から。俊足、バネのある体で人気のあった草分け的レフティー 加納孝(上)
- 大戦中にもサッカーを続け、戦後の復興期に活躍。テレビで見せたかった“弾丸的”飛び込み戦中派レフティー 加納孝(下)
- 世界の仲間とともに苦難の人たちへ心を届けよう ――東北関東大震災に思う――
- 自らもオリンピック、ワールドカップで働き日本の審判のレベルアップに尽くした 丸山義行(上)
- 国際試合60試合で審判を務め、中央大学のコーチ、監督を半世紀。傘寿のいまも試合に足を運ぶ 丸山義行(下)
- 1950年代に全国実業団6連勝94戦無敗の田辺製薬の守りの柱 宮田孝治(上)
- 中等学校選手権大会で無失点優勝 天覧試合に3度出場した戦中派“マケレレ” 宮田孝治(中)
- 34歳で4日連続試合 現役を退いた後も16年間、チームを指導 老舗企業チームの最高の師表 宮田孝治(下)
- 日本サッカーを応援、バックアップした FIFA会長 サー・スタンレー・ラウス(上)
- 東京オリンピック5、6位決定 大阪トーナメントをバックアップした 第6代FIFA会長 サー・スタンレー・ラウス(中)
- 日本が半世紀前に学んだ 第1回FIFAコーチング・スクールを開催 サー・スタンレー・ラウス(下)
- 温かい人柄とユーモアで世界をリードし日本を励まし、助けた第6代FIFA会長 サー・スタンレー・ラウス(続)
- ベルリンの奇跡の日本代表 闘志あふれるDFで理論派監督 堀江忠男(上)
- 早大の連覇に貢献しマニラでの敗戦から日本の課題を鋭く指摘 堀江忠男(中)
- 2FBから3FBへの本番直前の大転換に成功 ベルリンの奇跡をつくったディフェンダー 堀江忠男(下)
- 学生サッカーと選手を愛し続け 写真を撮り、選手に送り続けた大学教授 フィリップ・カール・ペーダ
- 第2列からの軽快な飛び出しで スウェーデンを切り裂いたベルリン五輪代表 加茂 健(上)
- ドイツの批評家を驚かせたベルリン五輪代表FW 疾走中の見事なボール処理 加茂 健(中)
- ピアノを愛し、エンジニアを志し、早稲田でサッカーに打ち込んだ ベルリンの大逆転劇を担ったレフトインナー 加茂 健(下)
- 世界一周の英アマ強豪を破り “東京”返上直前の黄金期を証明した鋭いダッシュ 加茂 健(続)
- 先人を師と称える日本サッカー殿堂入り 奥寺康彦
- 1970年〜80年日本サッカーの指導に革命 近江達
- 子供の自発で能力を伸ばす――ペレも認めた佐々木少年40年前の少年サッカー指導に革命 近江達(中)
- 昔のメッシ、佐々木博和を育て 自主性とボール感覚の大切さを指導 近江達(下)
- 第1回日本フートボール大会に出場 慶応ソッカー部の創設者でハンター邸の主 範多竜平(上)
- ゴールキックを笛の前に蹴ったとペナルティー 第1回日本フートボール大会の棄権事件 範多竜平(中)
- チョウ・ディンの指導で神戸一中を開眼 51年第1回アジア大会に後輩10人を送り込む 時代の先頭を歩いたサッカー人 範多竜平(下)
- メキシコ・オリンピックでPKを防ぎ 銅メダルを守ったGK 横山 謙三(上)
- コースを読み、タオルで誘って 45年前の銅メダルPK 横山 謙三(下)
- 50年前の代表の守りを支え、東洋工業黄金期を経て サンフレッチェの基礎を築いたサッカー人 小沢 通宏(上)
- 韓国の猛攻を食い止め メルボルン・オリンピック出場へ導いたDF 小沢 通宏(中)
- “東京”の選考はもれたが アマの東洋工、プロのサンフレッチェを日本一に 小沢 通宏(下)
- 一浪中の個人練習で腕を上げ、神戸経大の主となり 日本代表となった戦中派 則武 謙(上)
- 一浪中に毎日50本センタリングの練習 自らの工夫で進化した第1回アジア大会3位のFW 則武 謙(中)
- 大戦直後のサッカー再興とともに歩み 代表1試合出場で銅メダル獲得 則武 謙(下)
- 世界と日本に大きな影響を与えた 稀有なフットボーラー ペレ(上)
- やわらかなタッチでボールを浮かせ、DFをかわしてシュート ペレの技術はいまの日本にも ペレ(中)
- 2014ブラジルのW杯を前に思う ペレの偉大さ ペレ(下)
- マインツ・岡崎慎司の成長と 46年前の五輪銅メダリストの“ひたむき”ゴール 渡辺 正(上)
- 1956年天皇杯でキラリと光ったスピード “東京”の後も続く“代表”への情熱 渡辺 正(中)
- アーセナルでゴールを決めた釜本とともに 銅メダル獲得の攻撃の先頭に立ったFW 渡辺 正(下)
- 番外編 王国でのワールドカップ取材 楽しく刺激的なブラジルの旅
- 番外編 「もっとボールを蹴りたかった」 戦争に倒れたサッカー仲間を思う鎮魂の8月
- 東京高等師範学校で運動会 フットボール部をつくったオリンピックの父 嘉納治五郎(上)
- 日清戦争中も学生スポーツを奨励 日本オリンピックの父 嘉納治五郎(中)
- 1940年のオリンピック東京大会開催招致に成功し、 開催返上論を覆し帰途の船上で客死したオリンピックの父 嘉納治五郎(下)
- 西邑昌一(上) 戦前の小兵の名手 関学と早大の名インサイド
- 李昌碩を軸に関学をレベルアップ つなぐサッカーで天皇杯を獲得 低迷期の日本に輝いた 西邑昌一(中)
- バロンドールの華やかな場で FIFA会長賞を受賞した90歳
- FIFA会長賞異聞 多くの取材、質問で知らされた 自分の現場のありがたさ、先輩や仲間の威力
- 岡野良定(上) 三菱重工サッカー部を強化、発展させ 今の浦和レッズへ導いた 広島一中OB
- Jリーグ・トップクラブでの ルーツに広島一中 岡野良定(下)
- 世紀のオリンピックの著者 スポーツ記者の巨星 木村象雷(上)
- 後輩の育成に力を注いだ 英語に堪能なオリンピック記者 木村象雷(中)
- サンケイスポーツ新聞を創刊 『熱戦一番』『山ある記』を生んだ編集長 木村象雷(下)
- 広島で原爆を経験 戦後サッカー復興をリードしたGK 下村幸男(上)
- 「日本の銅メダルは生涯の誇り」とした 天才サッカー指導者 デットマル・クラーマー
- 修道高校を全国優勝、東洋工業で日本リーグ5回優勝 “東京”後のサッカーをリードした監督 下村幸男(下)
- 金子彌門 旧制中学生でサッカー、ラグビーの 全国大会二冠を目前に
- リーグ優勝3回、天皇杯優勝3回 ヤンマーを率いたJSL最多勝監督 鬼武健二(上)
- 鬼武健二(下) ヤンマーでリーグ優勝3回、天皇杯3回 Jリーグ・セレッソ大阪、Jリーグチェアマンで成功
- 1930年の日本代表で初のハットトリック 夭折した“天才”FW 若林竹雄(上)
- ヨハン・クライフを偲んで 比類なき攻撃プレーヤーで 変革をリードした指導者
- 日本中がペレに酔った(上)
- 日本中がペレに酔った(中) 44年前の5月26日 2点目に見た「王様の神髄」
- 日本中がペレに酔った(下) 1984.8.25 釜本を抱き上げ肩車 引退試合で“本領”
- “ベルリン”代表の殿堂入り 80年前の日本代表の光彩とその実力をしのぶ
- 金容植 ベルリンオリンピックで活躍した韓国選手
- このくにとサッカー最終章にあたって